取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

鬼滅の刃がハマらない

職場の人から借りて『鬼滅の刃』を一気読みした。
ハマらなかったなあ。いや、ハマらないというのは配慮と保守を含んだ表現だが、もう有り体に言ってしまうと、全然面白くなかった。壊滅的につまらない。


自分は普段「売れてる漫画」にはそれだけで信頼を置く方だ。世間で爆発的人気を誇っていても自分にはハマらない、なんてもの数えきれない程あるが、こと漫画に関してはそういうのがほぼないと思ってた。


経験則でそう思うってのもあるけど、一応推論的根拠もある。というのも漫画って消費者が支払う対価が大きい。例えば絵や音楽や小説、映画は鑑賞者にさしたる時間も金も求めなくて、鑑賞にかかる最低限の時間で言うと絵は一瞬、音楽は数分、小説映画は2,3時間であり、金で言うと絵や音楽なんてものによってはタダで享受できたりするし、小説も映画も2000円すれば高いくらいだ。その手軽さとコンパクトさゆえ、冷静に見たら馬鹿げた駄作であろうとも、鑑賞能力の低い人々からの軽薄な支持を得て世間に大手を振ってることが結構ある。良くも悪くも刹那的、商業主義的な世界というか。


しかし連載漫画というのは物語芸術の中でもかなり長編に及ぶものが多い上、人々を待たせながら定期でちびちび話が進む。そして長ければ長い分単行本を揃えるのにも金がかかるようになり、20巻新品で集めようとすると結果的に1万弱も払わなきゃならない。高いよね。


大衆ってのはバカかもしれないが暇ではないし財布にもちゃんと紐かかってる。支払った対価の大きさが人の審査の目をあからさまにシビアにするのだ。瞬発的な突破力だけじゃ人は待ったり金を出したりしてはくれない。
だからそうした中で10巻20巻という長きに渡って大衆の人気を維持できる漫画というのは、それだけで信頼に値する。映画やドラマ、アニメと違って制作に関わる人数もさして多くないので、作者の思想性だって如実に反映されやすいし、そういう意味でも誤魔化しが効かず、バランス感覚が求められる。


実際、現在進行形で爆発的に売れてる漫画というのは大抵納得できる面白さがある。売れてる漫画代表格のワンピースのあの冒険心くすぐる世界観の広がりや造語のセンスは化け物じみてるし、個人的にはアラバスタ編まで(もっと突き詰めるとグランドライン入るまで)あたりはほんと、他の追随を許さない面白さがあった。



【2009-2019】コミック別年間売上ランキングTOP10


つまりこういうの↑にランクインしてくる漫画ってのは面白くて当然なのだ。日本で十本指入るくらい売れてる時点で相当なレベルの高さは確約されてて、あとは個性と好き嫌い。私はこれに出てくる漫画ぶっちゃけ半分も読めてないので本来どうこう言える人間でもないのだが、やっぱりのだめカンタービレめっちゃ面白いし、進撃の巨人面白いし、君に届けも売れる理由わかる。このレベルで売れてる漫画から選ぶって時点で星5限定ガチャ同然になるってもんで、好き嫌いはあれど漫画の技量の高さはみな殿上人クラスだと思っていた。


ところが、鬼滅の刃はこの原理の外にある。たとえ瞬間最大風速であれ国内売り上げ1位に輝いた天晴な漫画であるにも拘わらず、蓋を開ければ絶望的に面白くない。こんな事態は滅多になかった、少なくとも自分の経験上はなかった。だから読んでみて本当に驚いて、緊急事態宣言を1人で発令した。


鬼滅のどこが面白くないかってのをつらつら語る記事ではないのでそれは割愛する。以下のブログの内容が大体自分の共感するところだったのでご参照ください。ちょっとアフィ感が強すぎるけど…。


https://kagesai.net/kimetsunoyaiba-review/kagesai.net


自分でも少しだけ言うと、根本的に展開の理由づけが全て弱すぎると感じた。それゆえにキャラにも奥行きが無い(特に悪役)。あと細かいところだと漫画の背景や設定を単行本のおまけページでひたすら言葉で説明するのは卑怯だしダメだと思う。それも裏設定とかの小話ならいいけど、ゴリゴリ本筋に出さなきゃいけないような設定ばかり後出しで出されるのだ。どうにかこうにか作品の中にねじこんでくれよ…。


子供向けとか大人向けとか関係ない。売れてる理由がここまでわからない作品に出会ったのは初めて。ジャンプの下位争いでよくありそうな漫画という印象で、とてもじゃないがワンピースどころか他の歴代人気ジャンプ漫画と張り合うようには思えない。るろ剣とかジョジョとかを継ぎ接ぎしたオマージュエピソードが頻出するので、作者はジャンプ大好きなんだなというのは伝わったけど…。
比較的新しい人気ジャンプ漫画のチェンソーマンが評判通りとても面白く、「流石ジャンプで人気出る漫画は違うな」と思った矢先に鬼滅の刃を読んだので、余計強烈な違和感を覚えた。売行きと実際の作品の間に、私の趣味や感性の問題とかそういう次元を超えた乖離がある。


売れてる理由を考察してる方々のブログをいくつか読んだところ、以下のような意見が多くみられた。


・アニメの出来が異常に良かったため補正がかかった
・若者の読解力低下により展開の矛盾や端折りが逆に高評価を得た
集英社が全身全霊をかけて作り出した紛い物のブーム


私見としてはあまり共感できない。全て一理あるとは思うが、これだけ売れた理由を説明できる程の要素ではないように感じられる。最後のに至ってはもう陰謀論だし。というかいくらなんでも大衆を馬鹿にしすぎな逆張り意見ではないか。
先に言ったように漫画というのは消費者に金も時間も要求する、現実的な購買ハードルがそこそこ高いメディアであって、鬼滅の刃だって御多分に漏れず一人一人のそのシビアな審査にかけられている筈なのだ。


偶然か必然か、私は最近ゲームでも「人気だけどストーリーが破壊的につまらない」ものに出会っていた。『ポケットモンスター ソード/シールド』である。


www.youtube.com



ゲームって購買の敷居という点で漫画と並ぶ次元にあると思っている。それなりのボリュームがあるゲームなら1本5000円くらいはするし、クリアまでに平均30時間は要するだろう。だから売れた名作ゲームと言われるものでちっとも面白くないものも少ない。
ちょうど文化としての柔らかさでも漫画と競っているし、中でも冒険RPGは物語芸術の一種として、漫画ほどではないにしろストーリーも重要視される筈だ。


ポケモン剣盾はそのストーリーが歴代随一で酷すぎる。手抜きも手抜きのゴミストーリーで、終盤の展開には目も当てられない。しかし剣盾は現時点で全世界1700万本という圧倒的な売上数字を叩き出しており、発売からの半年でポケモン史上屈指のキャラ人気を誇るオタク界の一大ジャンルにまで成長した。


ポケモンが売れるのはもはや当然であるし、ポケモンはストーリー以外の重要な要素が多すぎるので売れ行きどうこうについては言及しても仕方ない気がするが、この今までにない爆発的なキャラ人気には正直たじろいだ。確かにポケモン剣盾の人間キャラって見た目も中身もよく出来ていて魅力あるのだが、ストーリー上では誰一人全然活躍しないし見せ場がないのだ。なのに剣盾発売時には剣盾トレーナー達のセンシティブな絵がpixivランキング上位を席巻し、twitterでも未だに数万いいねされた剣盾キャラの二次創作が際限なく更新されてくる。


衝撃だった。いくらポケモンという肥沃な土壌を持っているにしたって、ストーリー上でほとんど見せ場がなくてもこれだけキャラ人気が出るものなのかと。ポケモン剣盾というのはキャラデザとポリコレに全神経を費やしたことでストーリーが陳腐化した悲惨な例で、その甲斐実ってキャラは魅力的な人格者に出来上がっているのだが、ストーリーでは特に活躍していないので彼らの人気はどこまでいってもフェチ的な人気に端を発する。
ポケモンの物語が主役をポケモンから人間にしちゃったら本末転倒だし、今作はそのやり方も下手だった。キャラの魅力は本筋で見せてほしい。レアリーグカードの文面作り込みとかいうクソみたいな見せ方するのやめてほしいのだ。


キャラ人気ってまずその作品の物語が面白いことが前提条件にあると思っていた。物語に登場するからこそキャラクターである訳だし。しかし剣盾の物語は絶望的に面白くない。
それはユーザーもよくわかっていて、実際に剣盾のストーリーがまともな人にまともに評価されているのってほとんど見ない。やはり大衆もそこの審美眼はあり、「ストーリーはアレだけど、まあそれは置いといてキバナ最高だよね」みたいなムードが漂っている。


(余談の暴言)
剣盾のストーリーを褒める少数の意見として「大人がちゃんと大人してて良い。年若い主人公が世界の危機を救うという物語に苦しい違和感を覚えていた昔の自分が救われて、成仏した…」みたいな意見が散見されるが、ちゃんちゃらおかしい。お前を救うためのゲームじゃねーんだよ、そのまま成仏してろ。
大人が大人してるっていうのが美点でも、そこに主人公をどう絡めるかが物語の魅せ所だろう。剣盾はずっと主人公が蚊帳の外にいたのに最後にポッと出で良いとこ取りするだけで、そんなのが面白い訳ない。そういう褒め方は進撃の巨人やモブサイコくらいちゃんと描かれた作品のみに適用してほしい。寝言みたいな感想ほざきやがってゲームすんのやめろ。嘘です。


アンチがしたい訳ではないのでそろそろ鬼滅の話に戻るが、要するに鬼滅も剣盾も、物語の投げやり感については消費者も十分気づいていると思うのだ。だいたい大衆の読解力や審美眼が落ちているとか、そんな厭世的な思考回路で作品の評価を分析するべきではない。


では何でこういう物語作品が評価されて売れているのかっていろいろ考えて、正直私もあまり確信を持てる訳ではないのだが、「物語作品における物語の重要度が下がっている」というのがそこそこ大きな理由を占めているんじゃないかと思う。言い換えれば作品の評価が多角化したような。


私としては物語芸術である以上物語の説得力が最重要だと思っているが、強引ながら「売れる作品=芸術的価値が高い作品」と仮に考えた時、その芸術的価値に占める物語の良さの割合はどんどん少なくなり、高評価を得るための必須条件ではなくなってきているのではないか。物語がどのくらい胸を打つか、つまり面白いか、というのは依然重要な視点ではあるが、それ以外でも評価のチェックポイントが増えてきて、割合もじりじりと幅を利かせてきた。キャラの独立した魅力、画面の個性、教育的価値、性的な満足、(私があまり好きじゃない)唯一無二の世界観…。作品はあらゆる角度から評価され、それぞれがどんどん重要性を増し、プラスマイナスの総合評価になっていく。


例えばさっきちょっと触れたチェンソーマンなんかは物語もすごく面白いけど、同時にかな~りフェティッシュでもある。特に女の描写。ジャンプでこれ載せるのか、って驚くくらい蠱惑的で、ニッチな方面への逆張り的アピールがある。そしてそれがあの週刊少年ジャンプでウケているのだ。これは新しい傾向のように思う。


物語芸術なのに物語の価値が低迷していると考えればある意味嘆かわしいかもしれないが、低迷しているというよりは、「一旦無視する」ということを大衆が無意識的にやるようになったようにも思う。それはそれ、これはこれという風に、ドライに仕分けして考える。ポジティブに考えれば種々の要素が個別にちゃんと評価されるようになったとも見れる。
こうした評価体制は最初に述べたような「支払う代償が少ない作品」つまり絵や音楽、小説、映画ではもっと前から始まっていて、それがようやっと漫画やゲームみたいな一段階代償高めのものにも浸食してきたのだと思う。


鬼滅の刃で考えると、この作品の教育的価値ってのは確かに他の漫画より頭ひとつ抜けてる。個々のメッセージが非常に教化的であって、例えば敵である「鬼」という存在にしても、主人公達が彼らを倒すまではひたすら残虐な異形の者なのだが、主人公に追い詰められ最期に息を引き取る時、優しい主人公の瞳に見つめられることで閉じ込めていた自分の悲しい過去を思い出すのだ。そして成仏…みたいなパターンが何度でも繰り返される。
私なんかはこれがもう説教臭くて嘘だらけで本当に嫌なのだが、見方を変えれば性善説にピュアに則った非常に教化的なメッセージでもあるし、最近は特にそういう当たり障りなさが無邪気に歓迎されやすい。従来漫画みたいなカウンターカルチャーでは寧ろ多用を忌避されてきた(そしてワンピース以降少しずつ解禁された)手法だけに、これをマジで一つ覚えみたいに連発するのは漫画としては意外と新しい。道徳の授業みたいなハジけたサイコな道徳性がある。


こういう教化的でポリコレ厳守な点は漫画ファンには酷評されがちだが、一般的にはそんなに憎まれないし歓迎される。子どもに読ませるのに良いという道具的な価値もある。絵本や青い鳥文庫じゃ満足しなくなりもっと刺激的で不真面目なものを読みたいとせがむ子供に対し、次なる教育カリキュラムとして与えるにはうってつけの道徳教材。それなりに残酷描写もあって何より少年漫画の体を成しているのに、その実は説教くさいまでに教育に良い――これが非常に効果的に働いている。教育的価値の高さで言ったら確かにあのワンピースをも遥かにしのいでいるだろう(ワンピースはジェンダー観とかが結構ヤバイし)。
物語の投げやり感に薄々気づいていてもそれはそれとして後腐れなく処理して別の教育的価値、認識的価値に目を向けることができる、そういう人達から人気が出ている筈だ。私含めアンチ側は鬼滅が浅いと言って非難するが、じゃあ鬼滅を深いと思って読んでる人がどれだけいるかって話ですよ。鬼滅人気は漫画ビギナーからの人気、っていう指摘はその点で核心をついている。漫画ファンほど物語の展開ひとつひとつに拘泥していろいろ言いたくなってしまうが、今の売れる漫画の価値としてはそれが全てじゃないということだろう。


あとよく言われてるテンポの早さ。「これダイジェスト版だっけ」と錯覚するほど駆け足で話が進み、いつのまにか敵倒して成長してる。国民の読解力が落ちてるからこういうのがウケてしまう…というよりは、読むのに体力が不要だとか速読できるだとかという点で実利的な魅力がある。こういう本来作品にとって外在的とさえ言える価値も、市場においては純粋な武器になる。(少し思うのが、この頃は作品の内在的価値と外在的価値の区別が曖昧になり、一緒くたで捉えられることが増えている気もする)


結論としては漫画含めた物語作品における物語の重要性が下がりつつあり、別の価値も大きく評価されるようになってきた中で、鬼滅の刃はその教育的価値とメディアミックスでの新規取り込み等々の他の要素が絡まり合って爆発的人気を獲得したのではないか、ということです。(にしてもまだ違和感が残るが…)


…とはいえ漫画ファンがここまで反発を持つ漫画が売り上げ1位ってのはどうなんだろう。でも漫画ファンはそういう事実にも気持ちよくなれる人種だと思うから別に問題ないかもね。

シェル=シルヴァスタイン『おおきな木』

おおきな木

おおきな木

半年に1回くらい、無性に絵本が読みたくなる。

母親の趣味で幼少期にちょっとした絵本英才教育を受けていたためだろう。今でも書店に行くと絵本コーナーにちょっと足をとめてパラパラ読んでみたりする。周りは大抵親子連ればかりで、併設されている遊び場の積み木を手にMonkeyさながらウキャキャと遊ぶ子どもの3メートル横で怯えるように絵本を棚から取り出し取り出ししてる時、自分がすっかり許されない存在に成り果てたように感じる。

 

とはいえ流石に私もいい大人なので、『ねないこだれだ』とかを読んで喜んでいる訳ではない。最近はいわゆる大人向け絵本を読むことが多くて、これはそのジャンルのベストセラーだそうだ。某サイトで大人向け絵本のおすすめ第1位になっていたし、「世界一受けたい授業」でも取り上げられたことがあるらしい。

 

作者のシェル=シルヴァスタイン(1932-1999)はアメリカのイラストレーター・シンガソングライターで、グラミー賞も受賞している。顔写真を見るとまあまあいかついおじさんだ。

代表作であるこの「おおきな木(原題:The giving tree)」は1976年に本田錦一郎氏によって日本語に訳され、こちらの翻訳も評判が良かったようだが、訳者物故のため村上春樹の新訳となって2010年に改めて刊行された。私が読んだのも村上春樹版。村上春樹はほんといろんなところに現れてきますね。

 

あらすじ

1本の大きなりんごの木があり、その木はある少年が大好きだった。彼は毎日木のところに遊びにやって来て、木登りしたり葉っぱで冠を作ったり、体を預けて眠ったりした。木はそれで幸せだった。

しかし時が流れるにつれ、少年は木のところに来なくなる。久しぶりに姿を現した少年はもう大人になっていて、木と遊ぼうともせず「金が欲しい」と木に迫る。木は金など持っていないが、「私に生ったりんごを売ってお金にしなさい」と言い、少年はそれを聞いて1つ残らずりんごをもぎ取り金にする。木はそれで幸せだった。

中年になると家がほしいと木の枝を切り、老人になると船がほしいと幹を切る。木は少年の望むがままに身を与え、ついには切り株だけになる。それでも木は幸せだろうか——。

 

シンプルな筋書ながら、非常に胸が締め付けられる。 

少年(もう老人になっている)が「船を手に入れて遠くに逃げたい」と言ってきた時、ただでさえ滅多に訪れない少年が遠くにいってしまうなど木にとっては寂しいに違いないのに、木は惜しみなく自らの幹を切るように促して「それで遠くに行って、幸せにおなりなさい」と言う。最後に少年が木のところにやって来た時、木は「ごめんなさい、もうあげられるものがない」と言う。

 

木は母親、少年は子どもを象徴している、と考えることはとても自然な発想であるし私もそのように感じた。子どもが大きくなるのは当たり前のことで、与えられた愛を受け入れるのも健全なことだ。タダで鬱陶しいほど愛情をくれる人を、大事に思えない時だってある。私にだって思い当たる人達がいる。普通のことだ。少年も普通に成長しているだけ。しかし思い出とひと繋ぎに追った時、どうしたことか張り裂けそうに切なくなってしまう。だから少年も節目節目で思い出したように木のところに来るのだろう。母子という関係に限らず、昔から自分にだけ全身で愛を与えてくれた人のことって、大人になっても時折思い出すものだ。

 

幼い時私を目にかけて可愛がってくれた祖母が去年死んだ。昔はよく祖母の家にひとりで遊びに行ってずっとこたつで話していたり、二人で電車に乗って街まで出かけていったこともあった。きょうだいのうち私にだけお年玉を多くくれた。

しかし私は成長すると祖母の家には行かなくなった。行ったとしても家族と一緒に、挨拶として行くだけになった。別にトラブルがあった訳でも、嫌いになった訳でもない。大きくなっただけの話だ。気づいたら祖母は病に倒れ痴呆となり、あれほど可愛がっていた私のことさえ認識するのも難しくなった。それまで見たこともなかった、病人じみた口の動かし方をするようになった。病人だから当然なのに、私にはそれが衝撃だった。

その状態が10年以上続き、ついに去年亡くなった。私は悲しくすらなかった。近いうちに死ぬことはずっとわかっていたし、祖母の中にいる私はもう私ではない。けれどもやっぱり、悲しかったのだと思う。祖母のことを思い出すと頭の中でビー玉が転がる音がするのだ。

無条件で愛された確かな記憶が祖母の病臥によって突然モザイクをかけられたような気がして、長いことずっと変な感じだった。はじめに離れたのは自分の方だけど、それにしたって何でだよ、何でなんだ、という反発心もあったように思う。しかし葬儀で見た遺影の祖母は若く茶目っ気があり、小さな私とこたつで話していた時の祖母だった。それを見て私はやりきれず…祖母の死よりも自分の矮小さが悲しく、そんな自分がなお虚しかった。自分は自分が受けた愛に見合う人間ではないと思えた。

 

例えば自分がこの先もし結婚して子どもを産んだとして—もしくはその子がまた子どもを産んだとして、自分がこの木や私の祖母のように与えられる自信はないし、必ずしもそこまで与えなければいけないとは思わない。それでも子に対して無償で尽くし、「それで幸せ」と信じるこの木の気持ちもよくわかる。

 

有島武郎の『惜しみなく愛は奪う』が思い出される。愛は自己への獲得であって、愛するものは絶対に奪っている。それでも不思議なことに、愛された側は何も奪われない。それが愛のすばらしくも厄介なところだと。

この絵本で愛する側である木はわかりやすく少年に身を捧げて「奪われて」いるが、言い換えれば少年に自らの幸せを見出してそれを「奪っ」てもいる。だが少年は一貫して何も奪われない。献身という名の愛は美しくもあるが自己満足の剽窃でもある。果たしてそれは本当に幸せなのか。

 

どうでしょうね。私のばあちゃんは私を可愛がって幸せだったと思いたいが、やはりそうでない時だってあったはずだ。人の人生に幸せとか不幸せなんてそもそもなく、その時々の日々があるだけだろうとも思うけど、それでも考えてしまうのが人間よ。

 

 

ちょっと辛気臭いことも書いてしまったが、読み応えのある良い絵本だった。もし子ども生まれたらまた読んでみたい。

木の描写も常に枝下あたりまでで見切れていて、表情が読めないような演出になっているのも想像を掻き立てる。あんま言及しなかったけど絵も線が綺麗ですごい良い。もちろんシルヴァスタイン画。

「オンライン飲み」がなんか苦手

世の中で隆盛していても、自分は乗れない波がある。
世間との断絶を感じることなど誰しもいくつもあるものだが、最近の私にとってのそれが「オンライン飲み」だ。なぜ乗れないかと言うと、気に食わないからではない。いや、それもちょっとあるかもしれないけど、一番の理由ではない。一番の理由はもっと根本的で、「なんか生理的に無理」なのだ。


そもそも友達が少ないことと、その友達も自分と同じタイプが比較的多い(多分)ということもあって、ぶっちゃけオンライン飲みにはこれっぽっちも誘われていないのだが、もし誘われて参加したとしてもちゃんと楽しめないと思う。

というのも、ビデオ通話というもの自体は過去に何回か、複数名としたことがあり、その時に毎回苦手だな、自分には向いてないなと思ったので、その強化版であるオンライン飲みも必然的に無理だろう、という訳だ。実際全然やりたいと思わない。…いや強がりじゃないから…。友達と話すこと自体は好きなのに、ビデオ通話になった途端に喉元がつかえたような不自由な気分になるのだ。

なんとなく居心地が悪い。落ち着かない。恥ずかしくて普通に喋れない。気持ちが悪い。見られたくないし見たくない…。

なんで私はこんなにビデオ通話が苦手なのかなー、と不思議だった。いや、厳密に言うと理由はうっすらとわかるんだけど、どうせ誘われることもないしあまり深くは考えようとしていなかったから、「ビデオ通話苦手問題」は私の中で靄がかかったようなテーマになっていたのだ。


そんな折にTwitterを見ていたら、とある動画に出くわした。
メンタルドクターを名乗る若い男性が、「うつ病の人への禁句」を早口で挙げながらうつ病患者への理解を促す動画だった。(個人的には投稿者の「禁句」って物言いにこそまさにうつ病患者への腫物意識が現れてると思う。視聴者を釣るための極端な形容だろうけど)
元々この手の「呼びかけ動画」は見てて良い気がしないし、当然その動画も受け付けなかったのだが、今回に限っては見て良かったと感謝した。

なぜかと言うと、その動画を見た時に感じた強烈な嫌悪感はまさしく私がビデオ通話の時に感じる不快感と根底で同質のものだと気付いたからだ。ビデオ通話が引き起こすちょっとした不快感を最大まで鮮烈かつ薄気味悪く拡大したもの、それが私にとってあのメンタルドクターの説教動画だった。気持ち悪さの程度が強すぎるものというのはその気持ち悪さの要因も典型化・極限化されているため、非常に分析しやすい。巨大な不快感はたまに気づきを与えてくれる。だから不快なものも時々見たくなっちゃうんだよな。そう、全ては学びのために、不快なものも甘んじて摂取するってわけ。それは嘘。

…そしてそこから分析したところによると、恐らく自分はビデオ通話の以下の部分が苦手なのだと考えた。


 ① 端末画面中に素人の人間の顔が表示される
 ② その人間がこっちを見ている
 ③ その人間が自分の意見を喋っている


大きく分けて上記3つ。ちょっと説明する。


① 端末画面中に素人の人間の顔が表示される
現実では物質的厚みを持っている生きた人間の顔が、スマホやPCみたいな薄っぺらい端末画面の中にしまい込まれていることへの違和感・拒否感。カメラやTVが発明された最初期なんか、お茶の間はきっとこの違和感に包まれた筈だ。
とはいえ当然私達現代人はTVや映画で余程この現象に慣れてるし、自分もそれらを何ら不思議に思ったことはないのだが、それでも例えば、自分の眼球から20cmくらいしか離れていない端末画面いっぱいに素人の顔が表示されることには何とも言えない拒否感を覚える。

寝転がりながらFacebookで知り合いの顔アイコンを全画面表示してまじまじ見てる時なんか、ものすごく不潔なことをしている罪悪感で居心地悪くないですか。著名人ではない素人の生々しい生活感に溢れた顔が、薄い端末の中にしまい込まれている不整合。しかもビデオ通話となると大抵の場合その相手は自室という極めて私的な空間にいる。普段ではありえない距離感、ありえないサイズで、互いに侵入し合わなければならないのだ。そういう身体感覚的な点でも、どうしても埋められないギャップがある。


② その人間がこっちを見ている
元々人と目を合わせるのが苦手というのもあるけど、①とかけ合わさってこれはより落ち着かなくなる。画面の中の人間がなぜか実体の私を認識し、目で追いかけているように見える。①の時点で既に訳のわからない存在と化している人間が、なぜかこちらをリアルタイムで識別し捕捉してくることへの違和感。相手は1端末の画面の中にしかおらず、そこ以外は全て自分の城で対話しているにも拘わらず、その画面の占有振りからむしろ対面の場合よりも逃げ場がないように感じられる。


③ その人間が自分の意見を喋っている
意見がある人が意見を語る時って独特の熱が体にこもっていて、喋り方にもそれが現れる。それを好意的に聞けるような相手であればいいが、そうではない時、伝えようとしている人間特有の鬱陶しさが聞き手の脳に絡みつく。無碍にもできず面倒くさくて、自分勝手で杓子定規で…。

とにかく人が意見を伝えようとする時は人間の人間らしいところが遺憾なく表出される訳だが、それを①のような不自然な人間存在が画面の中で露わにしてくる、というギャップに頭が追い付かない。人間らしくない存在がめちゃくちゃ人間らしいことをしてくる、という矛盾(?)に理解が及ばなくなる。


以上、こう書くとかなり神経質な苦手意識だが、自分にはわりと腑に落ちる。だから私せ〇ろがいおじさんとかDa〇Goとかもすごい嫌なんだなって納得した。言ってることがちょっと…というのもあったけど、あの人達の動画のアプローチの仕方が本当に苦手で。インスタライブとかも見てて恥ずかしくなるから、5月にやってた宇多田ヒカルのインスタライブすら仮にもファンのくせに1秒も見れていない。それらはこういう原因だったんだなと解明されました。特に①が大元で、これによってあらゆることに違和感を感じてしまうんだろう。


ゆーて家族や友達とビデオ通話する分には「ちょっとやりにくいな」って肌で感じるくらいだけど、そのやりにくさを分析すると根本はメンタルドクターと一緒というか。

それにしても、皆はあんまりこの嫌悪感感じないのだろうか。メンタルドクターさんの動画も何だかんだでめちゃバズッてたしね。ああいう形式の動画苦手な人って結構いると思うんだけど、ビデオ通話くらいなら平気という人が大多数なのだろうか。

私はこうした理由からいまだにYouTuberにも慣れておらず、一向にあの生々しい画面を見続けることができずにいる。芸能人YouTuberとかはキャストも裏方もプロだし画面にも程よい距離感あって抵抗なく見れるけど。あと顔出しのないゲーム実況なんかもいくらでも見れるしむしろ大好き。ゲーム実況は第一義がゲームにあるから余計な意見とかも喋らないのが良い。ただ生粋のYouTuberがやっぱきついね。画面がしんどくて。知り合いでもない素人を全画面で見続けるのは厳しいよ。単純につまらないというのもでかいけど。


…とにかくこんなこと言ってると、ますます誰からもオンライン飲みに誘ってもらえないだろうな。