祝・2020年。
年も明けたことだし、今年はこのブログをもうちょっと気軽に動かしていきたい。
というわけでメモ程度の読書記録を始める。新年早々本を読むことができた。
あらすじ(下記リンク先より引用)
友人野々村の妹夏子は、逆立ちと宙がえりが得意な、活発で、美しい容貌の持主。小説家の村岡は、野々村の誕生会の余興の席で窮地を救ってもらって以来、彼女に強く惹かれ、二人は彼の洋行後に結婚を誓う仲となった。ところが、村岡が無事洋行を終えて帰国する船中に届いたのは、あろうことか、夏子急死の報せであった……。
武者小路実篤はだいぶ前に『友情』を読んで面白いなーと思ったきりだったけど、この前読んだアンソロジー『吾輩は童貞(まだ)である』(筒井康隆ほか)に武者小路実篤の『お目出たき人』が収録されてて、それが個人的には当アンソロジー随一の童貞力を放つ面白さだったので、『愛と死』も読んでみた。
『ノルウェイの森』を軽々凌駕する程「100%の恋愛小説」って文句が似合う純愛小説だった。面白いけど、村岡と夏子のあまりにもラブラブなやりとりは読んでるだけでカーッと恥ずかしくなってくる。武者小路実篤ってモテない片恋男のプロみたいなイメージあったけど、『友情』の陰に隠れてここまで成就してる小説もあったのね。
村岡が夏子に恋し始めたあたりから明らかに筆が乗り始めてるけど、私はそれ以前の童貞力高めで嫉妬深い男丸出しの筆致の方が好み。夏子と結ばれてからのバカップル振りも男の儚い理想の恋愛が詰まっててそれはそれで味わい深いけれども、やっぱりこの人は序盤のように女に飢えて悶々とした男の心情を書く時が一番輝いてるような気がする。
見るもの聞くもの癪の種であり、征服される為の存在のように思えた。自分より偉い人間がこの世に居ることにも嫉妬を感じた。それに成長慾が強かった。(中略)
僕は野々村をさえ征服することを欲した。自分の頭の上に枝を出している樹木は、成長する樹にとってははらいのけられなければならない。僕は、誰も自分の上に枝を出すのが許せなかった。そういう態度がどこかにあらわれた。
野々村は寛大な男だから、それも面白い、俺は喜んで負けるよというような顔をしている、それが僕にはなお腹が立つ時もあった。(『愛と死』p.18)
このへんの描写がいかにも~で好き。素の性格がこれなのに、夏子と付き合いだしてからはこうした陰気な描写が一気に鳴りを潜めて、地の分さえもまるで好青年のような余裕ある筆致に豹変するところも趣深い。夏子が死んで少し経ったらまた陰気な男に戻るんだろうな。
あと夏子のことをめちゃくちゃ意識してるくせに、彼女がちょっと自分以外の人と浮ついた行動をとったと思った途端に急に村岡の思いが覚めて攻撃的になる感じとか、モテない男の悲哀に溢れてて面白い。
夏子というのは友人の妹で活発な美人。おまけにユーモアもあり愛情表現もふんだんで、極めつけには村岡の小説を愛読してくれているという嘘みたいな女性で、こんな女性と村岡が何の障害もなく結ばれてじれったい遠距離恋愛まで楽しんだ後、最終的には彼女の死によって悲恋となる…なんて、そのあらすじ自体はいかにも「男」って感じで「はいはい」と呆れなくもない。
ていうか、村岡は夏子にベタ惚れだから美人だのかわいいだのと終始書き散らかしてるけど、文章読んでる限り私は「夏子、多分顔もそこそこなんだろうな」って思っちゃう。なんかどうしても美女とは思えないんだよな。電車で恥ずかしげもなくイチャついてる微妙〜なオタクカップルみたいなのが頭に浮かんでくる。
悲恋物なのに読み手にこういうイメージを抱かせるのは逆に武者小路実篤独特の筆力だと思う。童貞力の強い物語の特徴として「相手のいつどこを好きになったのか全くわからない」ってのがあると思うんだけど、まさにそれ。自分に優しくて気がありそうな女だったから舞い上がって好きになっちゃった訳で、そこに彼らだけの特別な理由や、夏子であるべき必然性なんてものは一切見えてこない。それが良いとか悪いとかじゃなくて…。
一応この小説では「宙返り」が恋愛の転機なんだろうけど、自分にはそこはあんまりピンと来なかった。
しかも解説によると「夏子が死ぬところで武者小路実篤自身が泣いちゃったため、直筆原稿には涙の跡が残っている」…みたいな記述があって、なんか笑ってしまった。重なる思い出があったのかもしれないけど、マジで泣くのかよ。それを思うと余計に味がある。
でも読ませる文章なので面白かった。すごい読みやすい。すぐ読めた。