取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

虚構日記・望郷篇

 思うに田舎者ってのには、解けない呪縛がかかってるんだ。そんなこと言ったら誰しも同じ、都会者にだって都会者の背負うものがある、と言われるだろうし、実際そりゃあそうだろうが、ただとにかく田舎者にだって田舎者特有の呪縛がある。そして実家に帰るたび、その縄の締め付けが強まっていくものなんだ。要するにその感覚を、都会人にさもありなんと知った顔されたくないんだよ。お互い様だろ。そうだ、解けない呪縛、解けないパズル、解けない連立方程式。ぷぷぷ。なんとでも茶化せばいいが、大型連休最終日くらい感傷的になったって罰は当たらないだろう。


 いま俺は新大阪発・東京行のN700系東海道新幹線こだま号のE席に腰を下ろしている。味噌はE席ってところだ。東海道新幹線のE席というのは上りも下りも窓から富士山が見えるため、旅行客などはよくこの席に座りたがる。そう言えばもう遙か7年前になるが、就職活動してた頃、隣に座った人懐こい就活生がこの席から俺に話しかけてきて、静岡駅あたりに差し掛かると
「おおーっ、富士山だ。すげえ。俺これが見たくてここ座ったんすよ」
 と歯を見せながら興奮していたものだ。風光明媚に感動する感性に根っから欠けている俺は、何だ、ちょっと形が綺麗なだけのただの山じゃないか、と内心思ったが、この就活生はたぶん何でもいいから人と話して気を紛らわせたい不安定な心境なのだろうから、適当に合わせて受け答えした。リクルートスーツの同年代というだけで声をかけてくるくらい、社交的な小心者なのだ。今にして思えば可愛い奴だ。俺はそれ以降も相変わらず乗車時には富士山の見える席のことなど忘れているが、ふと座った席が二人席の端、すなわちE席だった時、今みたいに時々「あー、ここだっけか」と思い出す。あいつ、多分第一志望は落ちただろうな。
 長い乗車時間ずっと車窓を見ているほど暇でもなければ豊かでもない、が、帰省を終えて東京に帰る新幹線では、俺としたことがいつもセンチメンタリズムのつぼを刺激され、折々にぼうっと窓を眺めたりする。そもそもE席は混雑しない限り横のD席も使って悠々と一人旅気分を味わえるのが気楽だし、景色だって見れるに越したことはない。ただ富士山みたいなランドマークより、地方のそこら中にある半端な住宅街の風景の方がよっぽど好きだ。俺の住んでいた土地、たった今さっきまで居た土地も、まさにこのように寂れて長閑で俗っぽい場所であり、そういう土地が窓を隔てて向こう側にミニチュア模型みたく広がって—―車なんてまるでミニカーだ―—生気を奪われ、盆地を囲む山々だけが雄大に息づいて見えるその光景が、俺を程よく不安定にさせてくれるのだ。細田守の映画に出てくるような自足的でのんびりとした田園風景、都会の貴族連中が見境なくカフェに改築して止まない古き良き哀愁漂う木造民家、あんなものは俺から言わせれば×××だ。屋根の低い住宅街の密集とそこに突き出る巨大なイオンやエディオン、バナナ型のパナソニック三洋ソーラーアークは、一帯の地価を実に身近に現実的に想像させてくれるし、盆地の地形を浮き彫りにする壮観な山並みは、日本が世界有数の森林国であり、人間の建造物など全て地球にとっては雨後の筍に過ぎないことを教えてくれる。ちょうど今日は朝から雨が降っているから、まさにぴったりの形容だ。俺はその雨後の筍をウゴめいている土人であって、都会人だって本質的には同様なんだ……。
 我が仮住まいの神奈川はいま発令中の緊急事態宣言の対象外であり、ちょうど仕事のことで両親に報告すべき用事もあったから、多少の罪悪感を感じつつもこうしてGWにこそこそ帰省した訳だ。大阪にいる賢明な妹は今回の帰省を見送ったため、俺だけでも実家に帰ってくることを父も母も喜んだ。俺が入浴した後の風呂をすぐさま丹念に霧吹き消毒されたのにはまるで汚物扱いで笑ったが、確かに必要な作業だ、異議など無い。二人の子どもがどちらも親元を離れ彼方の大都会に身を置いてしまって久しい俺の実家は、家族四人暮らし用の庭付き一軒家を今や老夫婦二人で持て余している。俺が来ると大層喜び、俺が去ると大層悲しむ。だから帰省の終わりが来ると俺も——陳腐な表現で恐縮だが——心に穴が空くような気持ちになるんだ。俺自身の充足では埋められない、胸の奥の、屋根裏部屋みたいなところがある気がするんだ。今朝、俺が家を出る時の外の大雨を見て母さんは
「傘を持ってきゃあよ」
 と実家にたまったビニール傘を差し出した。俺は断る。
「新横浜で適当に買うよ。ちょうど新品の良いやつが欲しかったんだ」
 それは嘘じゃない。新幹線で荷物になるのも面倒だった。母は渋ったが俺が強引に説き伏せて、結局両手を空にしてリュック一つで家を出た。玄関を開ける時、何度目の帰省だろうと、この時の母の顔を見ると俺は魂の分離を感じる。俺の魂の配属地はずっとここに定められてるのかもしれないと。そういうことにすれば随分と都合のいいことが沢山あるんだ。……俺が大学に入学した時、つまりもう11年前から実家に置かれたままの俺の寝巻に袖を通すと、俺は一瞬で、何度でも、父と母の間に生まれた手のかからない長男に戻る。待ってるだけで美味い数品目の食事が出てきて、待ってるだけで風呂の湯が張られる。子ども部屋は整頓されたまま大人の俺を収容し、青春時代に読んだ星新一司馬遼太郎がずらり並んだ本棚は、もう小説なんて数行たりとも読めなくなった俺を労わりもせず嘲りもせずただ淡泊なファニチャーとして立っている。残り香ひとつない無味無臭にして、俺のセンチメンタルを掌握する空間だ。
 そういう空間で数日間を過ごした後に、こうして3、4時間かけて故郷からどんどん遠ざかり、神奈川の俺の賃貸マンションに向かう訳だが、大学の頃から俺はこの時間に弱いのだ。実家という箱庭から現実世界へ戻る道のりとして、丁度いい長さの時間だからな。移ろう窓の景色を眺めて孤高のノスタルジーに浸りつつ、頭の整理をつけていく。東京の都塵に塗れてせっせと半導体を売る俺に戻らなければならず、3、4時間あればのんびりとそういう俺に戻って行ける。懐かしい土地から遠ざかる違和感を受け入れるのだ。
 だが、いつだって戻っては行けても、いつまでも没入は出来ていないような気がしてならない。罪悪感の積み荷を積んだ俺のトラック、俺の半身が、故郷に停車したままだ。……感傷が過ぎて気持ち悪いが、そのくらいの気分になっちまう。すすけた家屋に老いた慕える魂ふたつ、そこに俺の魂もべったり残存して離れない、離れたことなどなかったかのように思えてくる。そう考えると都合が良いんだ。都内雑居ビル上階の居酒屋に向かうため、それに乗らなきゃ辿り着けないクソ狭いエレベーターに詰められてる時、ここで俺は何やってるんだ、なんで俺がこんなことしてんだ、俺の周りのこいつら一体誰なんだ、と腹が立って仕方なく、そういう時「俺の本体はここには無い」って強く思うよ。目をつむったら見知った広い道路が現れて、俺が帰るべき場所へそのまま連れてってくれりゃいい。山紫水明に興味が無いのに、そういう時は実に素朴な草ぼうぼうの近所の空き地まで鮮明に瞼に浮かぶんだ。寂しそうに俺を見送る母ともどもに。……今更認めたくないが、マザコンってのはこうやって、後から追いかけてくるのかもな。土台、俺以外の男を見ていても思うことだが、男にはいつまでも赤ん坊みたいなところがある。全くゾッとする話だ。早く頭を切り替えなければならない。感傷の良くないところは、人を幾重にも幼稚にするところだ。俺が帰れる場所がもう無いことなんてわかってる。


 新横浜に降り立つと同時に、車中から薄々気づきつつあった天候の異変をはっきり悟る。故郷を発った時あんなに土砂降りだったのに、こっちは雨が降っていない。しかし広がる空模様は曇天だ。つまり、止んだのではなくこれから降るのだ。笑える話だ、俺達はなんと雲よりも高速で移動してきた……。俺達の上空、お天道様を広大に横切るあの雲よりもだ。こういう時だけ気象予報士の仕事を実に身体的に感じるというものだ。遥か東へ400キロをただ席に座りながらものの数時間で移動した俺達は、雨雲さえも追い抜いて江戸東京に舞い戻る。全くこんなに速く走って、俺達は一体どうすると言うんだろうな。
 いや、速く走ってるつもりでも、一面では遅いこともある。父も母も、30目前で彼女を切らした俺の現況を快く思っていないのは今回の帰省でも明らかだった。詳細は差し控えるが。彼らに孫を見せてやりたい気概は俺にも少なからずある。だってさ、このまま悲しませたくない。あんな顔もさせたくない。ただ、母が寄越そうとした傘を拒んだのが回り回って大正解であったように、俺一人の裁量が功を奏することだって多い。そうだ俺は、俺のペースで行きたいだけなんだ。本当のところ、何もかも。それだけなんだが。

筒井康隆『モナドの領域』『ジャックポット』

あの筒井康隆も今年で御年87歳になるそうで、恐らくもう死まで年読み、月読み、秒読み段階だろう。そんなわけで直近に出された本は存命のうちに読んでおこうと思い立ち、GWに続けて2冊読んだ。

モナドの領域』

モナドの領域

モナドの領域

本人の宣伝文句曰く「生涯最後の長編にして最高傑作」ということで、最高傑作かどうかは甚だ怪しいどころか間違いなく壮言大語だが、一方これが最後の長編というのを真に受けて考えるとしみじみ悲しくなってくる。もう長編は書かないのか。
序盤は伝統的な刑事物ミステリーそのものだが中盤あたりから話の様相がガラッと変わって、大層なメタフィクション形而上学的というか思弁的な話に発展する。ここからが本番なんだと思うし述べられている内容自体も筒井康隆節全開で面白いのだが、いささか単調で疲れるし、発想が全てだな。それでも最後まで読ませてくるからやっぱり驚異的な筆力だが。小説世界における作家の神性(小説に準じて言うとGOD性)を軽快な物語に仕立てた実験的な作品。予定調和という言葉を壮大に物語化している。
筒井康隆の書く登場人物ってあんまり生気を感じないことが多いが、この作品で言うと上代警部だけは不思議と鮮やかな血の通いが感じられた。なんでだろ。イケメンだからかな。違うか。

ジャックポット

ジャックポット

ジャックポット

荒唐無稽、やりたい放題の自伝的小説集。収録作の半分以上がほぼ意味不明な言葉遊びの奔流で、夥しい固有名詞と用語にいちいち引っかかっていると一篇読むだけで日が暮れる。もし後代の人が親切にも単語それぞれにいちいち注釈を入れようとしたら注釈の方が紙幅を割く羽目になるだろう。こういうのって赴くままにすらすら書いてる自動筆記のように見えるが、いつか読んだ『偽文士日碌*1で本作収録中の一篇について「たった30枚の短編なのに2か月かかる。全然筆が進まない」みたいなこと書いてあったから、一応熟考や推敲の上で成り立ってるみたいだ。そう思うと逆に凄いよね。当たり前だがやろうと思って出来るものでは無い。
ある程度の筒井康隆フリークじゃないと正直ほとんどの短編がきついが、ラジオ形式の『ダークナイト・ミッドナイト』と最後の『川のほとり』は良かった。『ダークナイト・ミッドナイト』は死についての論考もとい雑談。ハイデガーの被投性*2についての件で、被投ってのは自分についての意識のことだけじゃなくて、他人についてもそうだ。パーティーなんかで人がたくさん集まってる時、「あーっ、この人たちも死ぬんだな」って思って落ち込むこと、これも被投だ。…みたいなことを書いていて、自分もその感覚すごくわかるから嬉しかった。大学の頃の夜の街路、コンパの帰りかなんかでがやがやと盛り上がっている大学生集団を傍目に「あの人達も100年後には全員墓なんだな」と想像し、笑えるやら切ないやら不安になるやら非常にナイーブな心境になったことが何度もあるが、あれも被投の一種って訳か。
あと『縁側の人』の雨ニモ負ケズ認知症version~は笑えたな。最後の短編『川のほとり』は亡くなった息子さんと夢で再会する話で、散々好き勝手暴れたじいさんの心の繊細な部分を最後に垣間見てしまったような殊勝な気分にさせられた。夢の中でも男の冷静さと洒脱さを保とうとする筒井康隆自身が見えてほろっと来る。


筒井康隆ともなると縦横無尽に好き放題やれて羨ましいなあと思うばかりの小説群で、これぞマジもんの暴走老人。一方で2冊全作品に筒井康隆本人が登場していて、創作活動でも終活に取り組んでるのだなという印象を強く受ける。余人をもって代えがたい人なので居なくなってしまったら悲しいが、読んでいるとやはり結構差別的だし、ネットだったら即炎上するような言説も散見されるから(深刻に受け止められないように滑稽話として常に調整されてはいるが)、時代感としては頃合いなのかも。とんでもないインテリジェンスかつ大家であるのに真っすぐ尊敬しきれない捻くれギャグ人間の深みがあって私は好きだし、こういう人がいることで我々は妙に安心できたりもするのだが。


それにしても、氏の『旅のラゴス』は私の生涯好きな小説トップ10に入るくらいには大好きなので、ああいうSFアドベンチャーを短編でもいいからもっかい書いてくれないかなあ。

旅のラゴス(新潮文庫)

旅のラゴス(新潮文庫)

*1:筒井康隆のブログ。

*2:否応なしにこの世界に投げ込まれて、生きなければならなくなっているという人間の認識、感覚のこと。

ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー『フライデー・ブラック』


骨太で冷静、爆発的。すばらしい。アメリカの、そして我々の現在を肌で生々しく、しかしデジタル時計みたいに正確に測り知れる珠玉の短編集。これ以上なく政治的でありながらプロパガンダ的な作為性が微塵も感じられず、全て根底に暴力への怒りを込めておきながら、暴力を振るう人間の中にある恐怖と戸惑いも視野に収めて描写している。激怒に身を任せているのに目だけが血を抜かれたみたいに透徹している、絶妙なバランス感覚。


フィンケルスティーン5』と『ジマー・ランド』、『閃光を越えて』が特に良かった。『フィンケルスティーン5』は1篇目に持ってくるのに最高な衝撃作で、まさにBLMそのもの。自身の黒人指数を「ブラックネス」と表現し、向かう場所に応じて服装や振舞いから細かくブラックネスを調節する主人公エマニュエルの感覚は、我々日本人の人種感覚からは及びつかないリアルだ。忌避され怯えられ犯罪者扱いされたとしても、生き抜くために柔和な態度を心掛けてきたエマニュアルがついに蓄積された怒りを弾け出す時、彼はまさに白人が恐れる暴力的な黒人そのものと化す。その時彼のブラックネスは10.0の最高値に達し……死ぬことでしかブラックネスを0にすることは出来ない。


この短編集は後半に行くにつれて攻撃性が緩和されていき、特に『ライト・スピッター』なんかはかなり希望のあるカジュアルな話だが、最後『閃光を越えて』で終末とそして暴力のループを暗示するという粋な構成になっててそれも瞠目ものだ。強く感じたのは、作者は明らかに暴力と経済合理性の相関から生まれるコンフリクトに強い興味を抱いており、中でも特に「物質を介する現場の商品売買」に暴力との深い関係を見出しているのが結構珍しいというか、特徴的だなと思った*1。自分も深く考えたことが無かったし、あんまり他で見たこともなかったから。それも、買いたいという欲求(手に入れるため暴力的になる)と売りたいという欲求(手柄のために暴力的になる)どちらにもそれぞれの暴力性があることに着目していて、非常に説得力がある。表題作の『フライデー・ブラック』(タイトルとは裏腹?に、黒人問題がメインの話ではない)とかまさに象徴的。一読した時はこの作品は表題作にする程ではない、もっと優れた作品があるのに、と思ったけど、作者は黒人差別というセンセーショナルな問題に限らず暴力そのものを取り扱って描いているから、そういう意味で象徴的な『フライデー・ブラック』を表題に持って来たのかな、とか思ったり。ブラックフライデーアメリカのクリスマス商戦のこと)ってこんな壮絶なの? とやや訝しんだけど、調べるとあながち間違いじゃないってくらいには混沌状態になるみたいだ。アメリカ半端ない。


2018年の本作発表当時ブレニヤーは27歳だったそうで、すさまじい才能。やっぱりアメリカってこういう人がちゃんと出てきてちゃんと脚光を浴びるのが凄いし何より良いところだな。帯で「恐れ知らず」と形容されていて、爆発した作風だからそう言われるのもわかるのだが、私はむしろ人の何十倍も恐怖に敏感な人だと思う。読んでてそこかしこに熟慮を感じるし。恐れ知らずと言うよりは、全て恐れ、全てわかった上で果敢に攻撃しているという印象で、だからこそ素晴らしい。世の中に一石を投じたい、投じねばならない、そういう気骨に溢れた真に尊敬すべき小説でした。

*1:作者自身ショッピングモールで数年働いてたらしい。