取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

小説について

2年くらい前から小説を書いてまして、今回、半年前に文学賞に応募したものの結果が出たのと、あと新作も書き終えたので、区切りとして独り言じみた反省をば。


半年前に書いた小説は今まで書いた中で一番、いやそれどころか今までの数本とは比較にならない程良く出来たと思っていたんだけど、蓋開けてみたら今まででダントツ結果が良くなかった。掠りもしてない。だから自分の感覚とのズレが大きすぎて、結果見ても悔しいとか落ち込むとかすら無くとにかく「あれ?」と拍子抜け、「もしかして郵送先間違えた?」とパニック状態になった(やや誇張)。私の感性おかしいのかな。
これまでの数本は日常的な心境小説だったのに対して、半年前に初めて現代日本以外を舞台にした虚構性・寓話性の強い話を取り入れてみた。するとこれが自分としてはかなり意外な程にしっくり来たので、「私ってこっちだったんだ!」と目が開かれた気がしていたのですが、結果を見て「あれ、やっぱこっちじゃなかったのかな」とまたぐらついてしまったというか。でもそれからもう一度考えて、「結局好きなもの、自分が良いと思ったものを書くのが一番だな」とまた考え直したところです。


長いこと自分を自己破滅型の私小説家タイプだと思っていたけど、そういう類型に捉われすぎること自体良くないなと最近になってつくづく感じる。私の好きな心境小説作家って坂口安吾とか有島武郎とかで、彼らみたいに日常生活の中で経験し考えたことを小説にするスタイルを自分もやりたいと思っていたけど、思い返せばどうやら私が彼らに感じていた魅力の要因はそこではなくて、彼らみたいなちょっと昔の偉い人達が、今を生きる小さな自分と同じようなことに苦しみ倦んだり、何か解決を得たりしていることそのものに対する感動だったのかもしれない。時代も文化も異なる小説世界の中に普遍的な人間性を見出だす喜び、みたいな。


そう思えば自分の趣味に結構腑に落ちる点が多い。私は現代の国内作家の書く小説が概して苦手で、読んでいる時にぞわぞわとしたストレスを覚えることが多い。そのストレスを私は長いこと「作家に対する自分の嫉妬ゆえのストレス」、言わば自分の目が歪んでるがゆえのストレスなのだろうと考えていたけど、そうではないなと最近になって漸くわかった。もっと単純に、舞台が現代日本で、現実の自分が置かれた環境とほとんど同じ世界が小説の中に広がっていることそれ自体に自分はストレスや貧しさを感じてしまうようだ。現実に似すぎていて居心地が悪い、小説である必要性を感じない違和感というか。こんなに似た境遇にいるのに登場人物の言動に何一つ共感できない時の苦しさ。私はあれがあまり好きじゃない。それだったらドキュメンタリーやエッセイで良いではないかと思っている自分に気づいた。


つまるところ私は、現在の自分との環境の乖離を前提とした純文学的な志の小説が好きだったみたいだ。実際、現代の国内作家で舞台が現代日本であっても、SFとかショートショートとかの虚構性が強い作品は結構肌に合う。歴史物のように舞台が少し遠ざかったり…そういえばインド舞台の『百年泥』なんかもその種のストレスが全く無く面白かったし、私小説でも自分と生育環境がまるきし重ならない人のものであればやっぱり大好きだ。
ただ、ある程度育ちのいい純文学作家(特に同世代)の現代小説を読むと、もう生々しすぎて臭みを覚えて本当に辛い。写実性への嫌悪と言うと箔がつくけど、もっと単純に、虚構世界の中でまで幼稚でせせこましい日常を見せつけられることへの拒否感であって、読んでいて非常に削られてしまう。あるある系とか、小説にSNSがめちゃくちゃ出てくるとか、そういうのにも「うえー」と思ってしまうのだ。こうした感性はあまり褒められたものじゃない(ていうかあるまじきこと)と思うが、でもそうなってしまっているからもう仕方がない。
小説以外の媒体でも同じで、例えば実写映画なんかは三次元人類の顔が出てくるのが生々しくて辛く、特に邦画は滅多に見る気が起こらない。本当に失礼な話だが、日本人の顔――自分の周囲やそこらへんにいそうな顔の人々がスクリーンに出てくると胃がモヤモヤするのだ。現実に似すぎていて嫌なのだ。だからよっぽどの傑作じゃないと見た後すごく嫌な気持ちになる。私がそこそこ漫画好きなのも、絵という表現技法は現実との開きを作るからそういう生々しさが軽減されてて馴染みやすい、って要素が大きい。


それに舞台が現実的になりすぎてしまうと、比べた時にどうしても現実の方が面白いから醒めてしまうという部分もある…のかもしれない。某ウイルス関連はもちろんのこと、ここ数年の小室圭まわりの動向を報道でいろいろ見ていると、「どう考えてもこの面白さ虚構では追いつけないな」と圧倒される。皇室の家系に突如あんな破天荒男がドリーム掴みに現れて、過去の金銭トラブルについての28枚の謎PDF提出するとか思いつく人いないでしょ。生身の人間の都合と情念の歴史が折り重なって紡がれる現実の出来事の迫力は当然フィクションを軽々越えていて、物語として見てみると面白すぎて引くぐらいだ。物語ではないので深刻にならねばいけないのだが……。


まあとにかく自分の好みに関して、最近そういう気付きがあった。好きなものはいろいろあっても、好きなもののどこが好きなのか核心部分をわかっていなかったのだと思う。だから自分の生活を資本にした心境小説を書いていてもずっと違和感があり、やりたいこと、好きなことをやっている筈なのに全然楽しくないむしろ辛いし、出来上がったものに自分でも臭みを感じて嫌になったし、本当に自分はこれがやりたかったのかわからなくなる、そういう状態が続いていた。ただ半年前に初めて系統の異なる作品に取り組んでみて、やっと光明が見え始めた感がある。無理やり自分を削らなくてもいいし、もっと趣味に走っても良かったんだなとわかった。
今回は良い結果が出なかったから、もしかしたら適性としてはやっぱり私小説系統の方が向いているのかもしれないけど、だとしても評価や形式にとらわれずに好きなもの納得できるものを追うのが結局一番健全で良いな。


あともう少し応募する賞もちゃんと考えるようにしようと思った。今まではあまり賞ごとの性格や傾向を考えず「その時やってる一番でかい賞」にポイッと出していた(それで受賞するのが一番かっこいいから)けど、今回、自分の出した賞の最終候補作を拝読したら、全部自分と真逆のタイプだったのでやや驚いた。まあでもそれはその賞への敬意が自分に欠けてた証拠でもある。だから自分との相性というのもそうだけど、それ以上にやっぱりちゃんと尊敬している賞に出したいと思い始めた。小さくても尊敬してる作家の名を冠した賞とか、尊敬してる選考委員がいる賞とか。当たり前だが自分が凄いと思っている人に認められることに価値がある。


そんでもうひとつ思ったのが、短編がちょうどいいな。いま中長編くらいのをちょうど1つ書き上げたんですが、知恵熱出るレベルですごい疲れたし、そもそも私の文章はしつこいから長く読ませるのに向いてない。このブログすら自分で読み返しててたまに「うるさっ」と思う。同じことしか言えない、同じ木しかつつけないキツツキみたいだなと。短編くらいが文体的にも体力的にもおさめどころだ。このところ重たいテーマばかり書いて疲弊したから、もう少し実験的な小作品も書いてみたい。



志して2年間、先が見えない生活と相まって常に焦って取り組んでいたけど、まあそんなこんなで焦ることでもないなというのが最後にわかったので、これからも頑張りまーす。
切りが良いしとりあえず社会復帰かな。関西や東海に帰りたいけど、やりたい仕事との兼ね合いとなるとなかなか上手くいかないものだ。転職活動みたいなみみっちい現実はやはり現実だけで十分だということも今まさに身をもって感じている。

大藪春彦『ヘッド・ハンター』

ヘッド・ハンター (光文社文庫)

ヘッド・ハンター (光文社文庫)

あらすじ(Amazonより)
晩秋のアラスカ荒野に、独り獲物を追う男がいた。杉田淳、三十四歳。元傭兵の彼の標的は、人間ではなく野生動物たちだ。大ヘラ鹿、グリズリー、バイソン…鍛え上げた肉体を駆使し、凄まじいまでの執念で次々とトロフィー級の大物を倒し食らう杉田。行く手を阻む密猟者グループを殲滅し、彼のハンティングは続く―。

大藪春彦の影の代表作との呼び声高いようなので購入。心理描写が全く無い乾いた文体にも拘わらず、濃密に埋め尽くされた男性性に眩暈がする。ここまで雄々しい小説は随分久しぶりに読んだ。雰囲気としてはヘミングウェイの『老人と海』を想起したけど、もっと徹底的に趣味に走って好き勝手書いている感じ。銃や野生動物の描写があまりにも精密かつ専門的で暫くのあいだ面食らい、読むのにかなり手こずったが、3分の1くらい読んだところでそもそも読者に全文読ませることを想定していない小説だというのを十分理解したので、以降はちょくちょく流しながら読んだ。先の『マイケル・K』の読書記録で人間の限界を超えた細部描写だと感想を書いたが、個物の描写の緻密さに関しては『ヘッド・ハンター』の方が偏執狂レベルで凄まじい。

杉田はその王を射つことにした。(p.138)


奇をてらった文体や繊細な表現にはあまり興味が無いので、大藪春彦のザ・ハードボイルドな乾いた叙述は自分としては非常に好み(とはいえもうちょっと心理描写をしてくれるとありがたいが)。たまに間に挟まれるシュールな比喩や冗談のバランスもかなり好きで、この小説においては自然のスケール観や杉田のずば抜けた屈強さに時々笑いそうになる。例えば「並の狩猟者が単独で運べる荷物は30~40キロだが杉田は100キロを抱えて移動できる」とか「技師20名を散弾銃で挽肉に変えた」みたいな記述がまるで当然のようにさらっと挿入されているので、凄すぎて不意に笑ってしまう。比喩で言うと「総合商社の本社ビルのような大きさの巨石」とかも面白かった。ハーレムの群れの中心にいる巨大なワピチ(シカ)を「王」と表現したかと思えば、その次に出くわした超巨大なエルク(ヘラジカ)を「帝王」と呼んでいたのも芸達者というか、そう来たかという感じでユーモラス。レコード級の獲物を捕まえるたび、死体と化した獲物と並んでにっこり笑った記録写真を機械的に撮っているのだが、それも荒唐無稽な味がある。


トロフィーレコードのための狩猟というのは日本人の自分には馴染みがない文化なので(孕んでる問題はさておき)興味深いけど、それにしても杉田のトロフィーへの執着は常軌を軽々凌駕している。獰猛な野生動物への恐怖心などとうに超克している杉田にとって、巨大な獣は血沸き肉踊らせるトロフィーでしかない。勝ち獲った獲物を横取りされた際の憎悪も甚だ凶悪で、人間の手に負えない程だ。単独猟の淡々とした描写がひたすら続くだけなのに、男性性の全てを見せつけられたような気分に陥る。あとがきで大藪春彦が「戦闘的ストイシズム哲学」と集約しているが、流石まさにその通り。


老人と海』しかり『山月記』しかり、やっぱり自分は「猛獣と男」というモチーフが妙にツボにはまるようだ。恐らくどちらも狩る側であるというのが良いのだと思う。単純に「男と男」や「猛獣と猛獣」の一対一ではなく、種族も文脈もまるで違うあり方で、しかし同じように生態系の狩猟側に位置する存在である「猛獣」と「男」が対峙しているその様に、何か化学反応を見出してしまう。友好ではなく敵対、それも単なる対立ではなく一心同体のような必然的敵対であると尚のこと良い。自分は女なのでこのニュアンスを上手く昇華できる自信がまだ無いのだが、もう少し追究できたらいつか自分でも形にしたい。


作家かつ探検家である角幡唯介の解説も素晴らしく的確だったので、この人の小説も読まなきゃなー。

↓備忘

極夜行

極夜行

J.M.クッツェー『マイケル・K』

マイケル・K (岩波文庫)

マイケル・K (岩波文庫)

あらすじ(Amazonより)
土のように優しくなりさえすればいい―内戦の続く南アフリカ、マイケルは手押し車に病気の母親を乗せて、騒乱のケープタウンから内陸の農場をめざす。ひそかに大地を耕し、カボチャを育てて隠れ住み、収容されたキャンプからも逃亡。国家の運命に翻弄されながら、どこまでも自由に生きようとする個人のすがたを描く、ノーベル賞作家の代表傑作。


殺伐として晦渋。干上がって水分が失われた泥土がこびりついた小説。土の匂いがするのにそれは乾いており、稔りの予兆がするのにそれは腐っている。読んでいて非常に苦しく幾度か呻いた。序盤、プリンスアルバートの農場目指して彷徨う下りは、執拗な程に緻密で具体的な文体と物語の緩急の無さが相乗して読み物としてはやや退屈だが、「こんなに詳細な描写をすることって人間に出来たんだ」と驚愕し平伏す思いだけでページを進め……農場に到着してその後キャンプに収容される辺りからは、物語それ自体に好奇心が持てて一気に読めた。


主人公のKは人と関係することが出来ない。内戦中の南アフリカで孤立無援となり、亡き母ゆかりの田舎の地で一人廃農場を耕している時、後にも先にもこの時だけ彼の人生は調和する。しかし時代の歯車は彼をその安寧の地に留めさせてはくれず、兵隊や警官によってKは次々に捕らえられてしまう。Kのような浮浪者達を集めて労働の代わりに最低限度の食料と寝床を提供する「キャンプ」を、痩身にも拘わらずKは何度でも脱走する。キャンプで与えられた食べ物を口にすることを拒み、理由を問われても答えない。


解説や他の感想をいくつか読むと、Kが脱走すること、食べないことはKが自分の自由を希求するがゆえだと言っている人もいる。そうかもしれない。だがKを自由と言うというのは、石ころを見てそれを自由と言う時の物言いに似ている。物質が物質の振舞いとして自由であることを、人間であるKにまで適用しているような不合理感を私は覚える。自分に慈善を施そうとする人間から逃げること、彼らの与えるものを食べないこと、確かにそこには侵犯という暴力から免れようとする消極的な自由の追求がある。しかしその先に辿り着くのが骨と皮だけの自分と、同じように骨と皮のような不毛の大地だけである場合、どうしてそんな自由を輝かしく捉えることができるだろう。


終盤まで私はKのことを、自分を他者に介することが出来ず、そうすることに価値も見出さない人間なのかと思っていた。育てたカボチャをKが初めて口にした時、この小説で唯一と言っていいような率直で瑞々しい言葉で喜びが表現されており、その眩しさは印象的で、だから誰がなんと言おうがどんなに身を落とそうが彼の自由は彼自身が超然と証明できると、そういう話かと思った。だが終盤、Kが自身を振り返り、身の上話を他人にせがまれても自分が何も話すことができず、彼らを喜ばすことが出来ないことに苦悶している記述がある。そこで少し見方が変わり(余計に苦しくなったが)……他人との繋がりをどこかで明確に求めているのに、それを叶えられない、そういう能力が決定的に無い人間が、絶え間ない暴力の中それでも大地を耕している時は土や石ころのように優しく、世界と調和し生きていける、そういう人間の悲愴な生命力、虚しくもある底力のようなものが感じ取れた。肯定するしかない程にひ弱で強靭な一個体がひとつの作品を使ってまるまる提出されている。


クッツェーは2003年のノーベル賞作家だが、読むのはこれが初めて。あまりに素晴らしいので本当は書くことなんてなかったが無理やり書いた。ノーベル賞受賞作家は思索の深遠さや文章の出色振りは当然として、みな志が崇高なのが何にも増して重要で価値がある。こんな作品を作り出すことが出来るなんて人間ってやっぱりとんでもないなと思わされた。


↓備忘

恥辱 (ハヤカワepi文庫)

恥辱 (ハヤカワepi文庫)

夷狄を待ちながら (集英社文庫)

夷狄を待ちながら (集英社文庫)

鉄の時代 (河出文庫)

鉄の時代 (河出文庫)