「本読んだらできるだけ都度感想書く」と以前宣言したが、当然、続いていない。やっぱり毎回書くのは疲れるから無理だ。気を取り直して、書きたい時に書きます。
書誌詳細(Amazonより)
「ぼくらの非モテ研究会」は男性の生きづらさを語り合う場としての当事者研究グループである。非モテ研では、幅広い分野で注目されている当事者研究の手法を応用し、これまであまり語られてこなかった男性たちの「痛み・悲しみ」だけでなく、「非モテ」の現状を打開しようとする、切実さのなかにもユーモアあふれる研究成果を蓄積している。
以下は本書からの引用。
「非モテ」男性たちは「自分は一人前の人間ではないのではないか」という劣等感にさいなまれていく。(p.15)
「非モテ」男性は他者や社会との関係のなかで「自分はモテないから駄目だ」「周りの人間よりも劣っている」といった否定的な自己像を抱いている。家族療法家のマイケル・ホライトはこうした支配的な自己描写を「問題のしみ込んだ描写(problem-saturated descripstion)」と呼んだ。(p.22)
「非モテ」という曖昧な言葉は、名状しがたい男性たちの生きづらさを語りだすための呼び水になった。(p.46)
男性という社会的属性を持つためにさらされる問題をマクロに分析することは重要な作業だろう。しかし、そこでは男性個人の具体的な経験が抜け落ちてしまっている。自殺も過労もいわば結果であり、その結果に至るまでの男性の個別の「生きづらさ」は深堀りされない。(p.97)
(外を歩くカップルを見たくなくて引きこもってしまう「不本意出家」の対策として)他者とはどのような人であり、どのくらい関わり合いたいのか。巷にあふれる情報だけに惑わされず、観念から具体へ。顔が見え、心ある関係へ。事実と妄想を区別する。(p.121)
僕にとっては性も恋愛も現実に成就するものではなく、部屋で一人その幻想と妄想にとらわれて憧れ、あるいは苦悶する状態こそがリアルなのだ。(p.135)
幼いころから漫画やドラマに囲まれて育った私は、人生はある出来事がきっかけに大きく変わるのだと信じてきました。でも、実は人生とは地道にしか進めず、理想に近づこうと思えば、目の前にある段階を一歩一歩のぼっていく必要があるのでした。(p.176)
すーごい面白かった。「ぼくらの非モテ研究会(以下「非モテ研」)」という当事者団体の研究発表であり、非常に真面目で真剣な本であるが、タイトル、表紙、概要からも察せられるように全体を通してコミカルで、テーマに反して鬱屈としすぎない光明が差している。とても良い本だし、女性の自分もいろんなことを有意義に考えさせられたので、以下とりとめなく長い感想を残しておく。
自爆型告白男子の加害性
非モテ研の大きな柱となるルールに「できるだけ一般論やどこかで聞いた知識よりも自分のエピソードを語る」(p.55)というのがある。これは非常に建設的で良いルールであり、このおかげで本書で語られるひとつひとつの非モテエピソードは非常に立体的かつ身近に感じられて面白い。自分の周囲でかつて起こっためくるめく非モテメモリアルも蘇り、あの時あの男性もこんな心理状態だったのかなと思いを馳せることも出来た。好きな女性が彼氏と歩いている現場に出くわし、その日ずっと目を爛々とさせて酒を煽りブチギレていた男性。好きな女子の誕生日プレゼントに入浴剤をあげてしまう男性。好きな後輩の私服がノースリーブに膝見えスカートだったことにドギマギし、「もしかして俺を意識してこの服を着てきたんじゃないかという妄想が止まらず永遠に落ち着かない」と吐露していた男性。思い出すと懐かしい。彼らには勿論悲壮感とキモさが漂っており、話を聞くと「何言ってんだこいつ」となるけれど、それでも傍観している分にはどこかオモロの風情があるのだ。彼らは女性に対して取り乱し困惑しており、その困惑が自爆という形で発現する。
こうした不器用さ、繊細さは奇妙にも愛嬌を有している。それゆえに非モテ性質を第三者目線でフェチ的に愛玩する女性も結構多く、女性の創作物には「内面が非モテのイケメン」という理想的存在がよく登場するし、美青年でもない非モテのセブルス=スネイプ(本書でも取り上げられている)というキャラでさえ、かなりの女性の支持を獲得している。
ただ現実問題として、いかにもモテなさそうな男性から当の自分が好意を寄せられた時、その気がない女性側としてはやっぱり、怖いし、困るし、迷惑なのだ。彼らの接近は大概かなり急なことが多いので、女性側も事前に断る準備というものが出来ないゆえにその時その時で狼狽えてしまう。気が乗らない誘いを受けたとしてすぐさま好意を無下にするのは気が引けるし、相手が男で自分が女である以上、逆上されて万が一暴力にでも出られたらこちらは太刀打ちできない。なので結局ぬるい断りを入れるに止まり、察しの悪い相手の期待を持たせたままにしてしまうのだ。こういう、誰も悪くないのに皆が不幸になる話が私は大好きだが、近くでこのタイプの事件が起こるとやはり悲惨なものがある。根絶したい事件だが、人間が希望を見出だす生き物である限り根絶はできないだろう。
『個人研究 いわゆる女装と夢見非モテの童貞世界、その研究』
第2章6節、団体メンバーの「ゆーれいさん」によるこの論考、俄かには信じがたいほど面白かった。この方は内容と巻末の執筆者紹介からして恐らくほぼ私と同年代(同い年か1個下)だと思うのだが、同時代人でここまで思索や文章が魅力的な日本人は初めて見たと言っても過言ではない、それくらいの空前絶後の才能が迸っている。
書いている内容は正直かなり奇矯なもので、紙面で展開される彼の「ぴゅあぴゅあ純朴童貞ごっこ」(p.140)には爆笑しながらもやはり決して擁護は出来ず、第2項の「女の子化」の話になるともうついていけないレベルで異常なのだが、それでも本人は至って大真面目に煩悶している——自分の問題を具に把握して、正確かつ自虐ユーモアたっぷりに交えて言語化まで出来るのに、どうしてもそこから脱出できない——ことが切実に伝わってくるし、分析能力の高さといじらしさに絆されて「なんかわかるかも」みたいな気分にまでなってくる。個性に溢れているのにケレン味はなく、知性的なのに情けなく、読んでいて気が狂うほど面白い。一体何者なのか気になって仕方がない、この人の文章をもっと読みたい、こういう人が文壇で陽の目を見なければ嘘だ! と稲妻に撃たれた。近代文学と近未来ヴァーチャルリアリティの風味をハイブリッドに纏う、類い稀な新進気鋭の文豪現る。本書に興味を持たれた人は是非この人の節だけでも読んでみて欲しい。
シン・エヴァと非モテ
本の中で述べられているテーマでは無いのだが、私は本書を読みながらシン・エヴァを連想した。私自身はシン・エヴァ未視聴だけれども、元来ネタバレなるものを一切疎んじない、むしろ気になったら積極的に踏みに行く性質なので、シンエヴァ自体は未視聴でありながらそこで成立した(と示唆されている)男女キャラのカップリングを私は既に知っている。そしてそれを知った時、最初は意外だったが言われてみれば「納得~」としか言いようのない、合理的で現実的、将来の幸福が見込める組み合わせだなと、私はストンと腑に落ちた。しかしどうも世評を見るに従来のエヴァファン、特に非モテと思われる層のエヴァファンが軒並みこの組み合わせを辛辣に批判…どころか激昂していたので、おやと思ったのだ。
そして暫く考えて合点がいった。最近流行りの(?)いわゆる冷笑系、アンチフェミ、弱者男性論者、男のミソジニスト…こうした広義の「非モテ」層には、シン・エヴァで成立したような相補的であっさりした対等な男女のパートナーという概念を認められない人が多いのではないか。そういう病理というか、フェチというか。男女の間には常に何らかの格差があってほしい、必ずしも男が上なのではなく、むしろ女に優越していてほしい、もしくはその格差は個人の間ですら固定されず時に入れ替わり、ただ「対等にだけはならないでほしい」…みたいなフェティシズムが染みついてしまっているのではないか。そしてその基盤には、異性という存在の魅力に圧倒された個々人の確たる経験がある。非モテ研には女性優越フェチ、平たく言えばM気質の男性の方が多く登場しており、好きな女性を信奉してしまう「女神化」なんて用語からしてもそれは明らかだ。
エヴァで描かれてきた男女関係はそういう男性のニーズを満たすものだった。作品内で提示される男女の組み合わせが全てどこか歪でドロドロしていて、幸せな未来が想像できず破綻しか見えない。ただその破滅性に魅力があった。ところがシンエヴァで成立した男女は割り切った対等なパートナーという感じで、それはそれでヘルシーな魅力があるんだけども、今までの破滅的な男女関係に惹かれていた層からすれば、直視したくないものなのだろう。しかもそれが自分の信じていた他ならぬエヴァの世界で展開されるのだから、そう思うと確かにちょっと酷かなという気がする。裏切りの感覚を覚えても不思議ではない。
「愛すべき非モテ」になれない者たち
本書で語られる非モテ的な態度は、女性にとっても耳障りが良く「滑稽」で「愛すべき」「応援したくなる」非モテになっているのが特徴だ。それは書籍という媒体の限界に配慮してそのくらいに抑えている部分もあるのだろうが、どちらかと言うとそもそもこの本の執筆者達が、非モテ研に自発的に参加するような真面目で悩み多き非モテ達だから、というのが大きいんじゃないかと思う。女性優越フェチの内向少年タイプ。非モテ研メンバー達には、自身の問題と真っ向からしかし距離を置いて向き合い、それを当事者達と分かち合おうとする真摯さが漏れなく備わっており、だからこそ読者もその誠実さに好感を抱くことが出来る。
ただそれゆえに、現実世界やネットの世界で散見される危険物的な非モテというのが、この本には登場してこない*1。自爆型告白男子の加害性なんて目じゃないような、もっと斜めで性根が挫けて、川の向こうに行ってしまった非モテ男性は、決して非モテ研のような自助グループに足を運ばない。お呼びでもないのかもしれないが、彼らこそもう一度川に目を向けることが必要あるいはそうすることで不幸の種が雲散することが期待できるのに、そうすることを彼らは断固拒否するだろう。それは解決の難しいジレンマでもあるが、――非モテ研はこういう層には現実的にあまり役に立たない活動だろう。そして重要問題は、そういう層がコアの爆弾を抱えていることだ。
自分の体験を語ること
上記の「愛すべき非モテではない非モテ」――具体的にはやはり冷笑系、アンチフェミ、弱者男性論者を想定しているが、暴論とは承知しつつもここで彼らを便宜的に「闇の非モテ*2」と総称することにした時、闇の非モテは専らネットに引きこもる傾向があると私見する。彼らにはあまり愛嬌や滑稽みが無い代わりに、攻撃性と露悪性に秀でており、それは時として彼らにそこはかとない「かっこよさ」みたいなものを漂わせる。彼らはTwitterやnoteなどを中心にシニカルでロジカルでインテリジェンスな文章を書き、統計を駆使して縦横無尽に主張を展開……中でも有望な人となると、同じ穴の貉である闇の非モテ達の支持を集めて、結構なお金を稼いでいるようである。
彼らのビジネスにはかなり反感を持っている私だが、それでもたまに彼らのnoteを無料で拝読してみたりすると、成程と思うことが全くない訳ではない……。ただ、彼らは事あるごとにデータを持ち出すわりに明らかに認知が歪んでいるので、どうもチグハグな感じがする。女性より男性の方が自殺率が圧倒的に高いとかそういう統計データやグラフを隙あらば挿入する点からは客観性や論理性を重視する態度を見出せるが、一方で彼らの論旨には異様な程に憎悪と情念が末節まで染み込んでいる。男性が生きづらさを語る時の罠について「実は全く違うところに原因があるのに、マクロな計量的データを用いた抽象的な説明が説得力を持つために、その説明に自分の苦痛や不安を回収してしまう」(p.98)という本書の言及はまさにその通りだと思った。つまり本当はデータなんかではなく恐らく個人的なトラウマに端を発する主張であることが節々から感じられるのに、そこについては決して具体的に語ろうとせず、男は女はという一般論がひたすら述べられ続けることに、私はかなり違和感を覚える。おかしいし、ズルいと思うし、ただ同時に、そこが本当に男性的だとも思わずにはいられない。赤ん坊を見るようなのである。
統計データとは本来それを元に分析して仮説を立てたり、あるいは先行する仮説の実証・検証のために条件を揃えて取ったりするものだが、彼らはどうも、まず何にも先んじて情念に溢れた経験的主張があり、その主張に客観的裏付けを与える都合の良いデータを探そうとする。統計と言われると無条件に公平性が担保されているように信頼してしまいがちだが、数なんて実際は条件次第でいくらでも操作可能なので、自分の主張に都合の良いデータなど探そうと思えばそこら中に転がっている。思うに彼らはデータや統計によって自分達の主張に論理性や客観性を付与する代わりに、その内奥にある個人的な体験とそれに伴う激しい感情を秘匿しようとしているのではなかろうか。過剰なまでの論理崇拝。感情的な自分を決して認めたがらないその屈折に、私はまさしく男性性の核があると思う。
女性の場合はこの逆であることが(あくまで体感的には)多い。彼女達は自分の感情や感覚にとても敏感で、個人的経験とその時の自分の感情をずっと後になっても何度も自覚的に反芻する。そしてその経験が現在の自分の主義主張に繋がっていることを隠さない。自身の感情が起点となっていること自体に重きを置き、そこに実在性を見出す。記憶とは増幅や収縮の危険を常に孕んでおり、実際には感情さえも偽造できるのでそこに留意する必要はあるが、それでもなお感情が論拠として重要であり、分析にも値すると考える。
ところが男性の場合は、たとえ個人的な体験でショックを受けて深く根に持ち、それにより自分の思想が大きく変革を遂げたとしても、元になったそのショックの方は頑なに開示したがらず(開示しても大袈裟な虚飾をしたり)、思想の部分のみを語りたがることが多い。そしてなぜそうして隠すのかを考えると、これは女性の自分の憶測でしかないが、「格好悪い体験だから」とか「感情を上手く言葉にできない」とか「感情的な自分が恥ずかしい」とか「感情は重要じゃないと思う」とか、そういう柵があるんじゃないか。彼らだって女性に負けず劣らず感情的なのに、それを認め発現することが「何故か、どうしても、できない」のではないか。そうして消化不良のままプツプツと燻っている感じがするのだ。だからこそ非モテ研のような、そういう自分のどうしようもない男性性を認めた上で、なんとか自分の体験の痛みを語ってみようという活動に、強く勇気づけられるような打開の希望が差して見えるのかもしれない。
一部のフェミニストは、男性達の生き辛さを打破するために「男性同士のケア」を提案する。男性の辛さの解決を女性という外部に求めなすりつけるのではなく、男性同士で癒せばよいではないかと。確かにそれが出来れば越したことは無い。あてがえ論みたいなのはもってのほかだし、女性の場合は恋人がいない空洞を友達や趣味などの別の娯楽で埋めたり、もしくは結構な精度で紛らわせたりできる人が割かしいるから、同じことが男性もできれば平和で良い。
ただ現実の男性達を見ていると、男性同士のケアなんてことが彼らに出来るとは、とてもじゃないけど思えない。いや、この言い方には語弊があり、「非モテ研のような自助グループこそ男性同士のケアではないか。出来ているではないか」と反論されるだろうが……直観的な感想として、いくら男性同士で理解が達成されたところで、彼らの「恋人がいない欠乏感」が埋まることはないように思う。むしろこの本を読んでその直観が確信に変わった。恋人というのは彼らにとって、代替不可能なまでに神秘化されたブラックボックスで、その感覚を「矯正」しようとすることなど端から不可能なのではないか。そのくらい、女性同士のケアと男性同士のケアでは意味の乖離を感じずにはいられない。一般的に女性にとっての男性の恋人と、男性にとっての女性の恋人は、存在としてあまりに大きな齟齬がある。男性は女性という存在の性的魅力にやたら圧倒されている人が多いような気がするのだが、逆に女性が男性の性的魅力に平伏しているような例ってそこまで無い。メロメロにされてるとは言えても、圧倒されているとは言い難いような……異性への惹きつけられ方が男女でまるで違うというか。男性に理解不能な女性性があるように、女性に理解不能な男性性もある。私が友人知人として交流を持っている数少ない男性達の中には、いわゆる男性規範――男性的な権力や能力主義、マッチョイズムを貪欲に追い求める――にストレートに乗っている人*3はほぼいない。むしろそれに非モテ的に葛藤し苦しめられている人が多い。しかしそういう男性達を見ていてもなお、「この人達に同性間のケア*4ができるとは到底思えないな」と、折々に実感させられる。それほどに彼らはどうしようもなく男性という岸壁にいるのだ。
近年は「生物学的決定論をなんとかして足蹴にしよう」という意欲を社会から旺盛に感じることがあり、特に男女の脳に脳科学的な違いがほとんど見られないといったような研究成果が、社会構造の歪みを指摘する目的で殊更に強調される。脳科学的な話をされると、専門知識などまるで持たない私は「へえ、そうだったんだ~」と素直に受け入れるほかない。しかし、最初から男女の統計的な平均の話をしている時に脳科学の話を出されたとしたら、それは明確に筋違いだ。「脳科学的であること」と「統計的であること」は全く違う。前者は人間の先天性と全体性に、後者は後天性と個人性に重きを置いており、フィールドも視野も違うのだ。
ただ「重きを置く」と表現したように、両者が必ずしも排他的とも限らず、重なる部分もあるように直観する。首の皮一枚で繋がってるような、紙一重の関連かもしれないと思う時もある。そしてそういう淡いの存在認識こそが肝要であり、両者を語る時にはその淡いを意識して特別慎重にならなければならない。科学というそれ自体では社会批評を持たないものを直ちに社会批評に結び付けるべきではないし、逆も然り。
笑われるという救い
この本の良いところは大きく2つあり、1つが上で書いた「男性が自分の経験を自分の言葉で語っていること」、そしてもう1つが「一貫してゆるく楽しく面白おかしく語られていること」である。全体を通して本書の語り口はみな非常にユーモラスであり、しかもただ単純に読者にわかりやすく読んでもらう益のためではなく、彼ら自身のストレスや切なさをユーモアに溶け込ませることで昇華しようとする意欲を感じる類のものになっているのだ。この距離感に好印象を持つし、しかもそれが実際に面白い。非モテ研の開催テーマや非モテ達の自己病名*5も毎度かなり秀逸な言語センスで驚かされる。それは彼らが活動を通してちゃんと自身の病理を外在化できている証でもある上、やはり「笑ってもらいたい」気持ちの表れでもあると思う。
執筆者の一人である足達さんの稿に、好きな女性(片思い)が出来た時その女性のことが好きすぎて、友人に溢れる想いを吐露したというくだりがある。
好きすぎて気がつけばその相手と”結婚したい”と独り言を口走ってしまうことや、当時は狭いアパートに一人暮らししていたので将来的に結婚するなら引っ越す必要があるということ、(中略)正直に言って僕が好きなその娘はガッキー(新垣結衣)よりもかわいいと思っていること……。
とにかく僕はその娘について思っていることを全部しゃべりまくった。
友達二人は、その僕の話にウケて笑っていた。「それは間違ってる」とかジャッジを下すのでもなく、あるいは「恋をうまく進めるにはこうするのがいい」とアドバイスをするのでもなく、ただただ、ゲラゲラと笑っていた。
そうやって笑われることが、意外にもそのときの僕にはとても心地よかった。救われた、とも表現できるような心地よさだった。
そして僕はこういうことを思った。
「妄想は妄想として語られることを求めている」。あるいは「妄想は妄想として笑われることを求めている」と。(pp.84-85)
実に面白いし、腑に落ちる話だ。私にも似た経験がたくさんある。以前、4人くらいのお酒の席で「私ほどチャラくない人はなかなかいない」と結構本気で述べた時、それを聞いた周りの人が「ハッハッハ」と気持ちよく笑っていて、その時私は妙に開放的で穏やかな気分になったのである。それはまさに、自分で信じ続けるしかなかった独りよがりな妄信だったものが、「ただの無意味なものではなく『面白い』という価値を生んだこと」(p.85)への成仏のような喜びだった。
足達さんが書いている通り、妄信とか妄想とかいうものは、自分の意思決定とは関係なく自動的に起動していつしか体にこびりついているものだ。「自分の意思とは関係なく勝手に始まってしまうことについて、『それは好ましくないことだ』という社会的な判断が付いて回るのは、なかなかにつらいことだと思う。『それ』をやってしまっている自分に罪悪感を感じさせ、人に打ち明けることを難しくさせる。そしてその感情を外に表現することを妨げるために、自分のなかで肥大化していくよりほかはない。」(p.87)その通りである。
認知の歪みを「面白いもの」として笑われることには救いがある。揶揄い嘲笑する笑いではなく、ただ面白さという価値を認める時の笑い。非モテ研の方々はあれが好きなようだし、私もあれが好きだ。それに、序盤でも述べたが、非モテの心理はやっぱり根本的に面白いのだ。そこは女性の自分として、正直とても羨ましい。
女は笑われない
男性の非モテは「キモいけど面白い」的なコミカルな価値を見出されやすいのに対して、女性の非モテはただひたすらな悲惨さみたいなものを帯びてしまって、あまり笑われることがない。これはモテ以外の面でもそうで、例えば童貞という言葉が持つ面白さを、処女という言葉は明らかに持たない。女性を笑ってはいけない、女性じゃ笑えない、女性だからあまりチョケづらい、そういうどこか抑圧的な共通認識が男女双方に根付いており、あらゆる場面において女性は笑われないことが多い。
こういう心掛けは善意や道徳意識またはリスク回避の意識から来ており、現にそれが効果的に働くケースも多々ある。ただ、ユーモアセンスの高い女性はたくさんいるのに、大勢の場などではどうしても抑圧されてしまう面もあるから難しいなと素朴に感じるし、女性にもこうやって「自分の頑なでおかしな部分を面白いと笑い飛ばされたい」人って自分の他にも絶対いるはずだ。面白いと笑われることは、聞き届けられた証明なのだ。
こうしたオモロ対象の不平等には私もちょっと不満があって、男はすぐふざけられていいよな、とクサクサした思いになることもある。田房永子さんはよくこの種の話を議題にしており、ろくでなし子さんなんかはこの中でもかなりセンシティブな領域に踏み込んで注力しておられる。とはいえその不平等の是正を構造から変えるなんてことはほぼ不可能であろうから、ただ自分が面白いこと思いついてそれを形にできれば良いよな、くらいに自分は思っている。
そう言えばこの本のレビューを見ていたら「モテないのもソーシャルディスタンスのうちだ」と仰っている男性がいて笑った。そして私の数少ない男性の知人のうちで唯一男性的なパワーの享楽を楽しんでいるタイプの男性(不躾ながら敢えて分類するとしたら闇の非モテであり、決して手放しにパワーを楽しんでいる訳ではなく、アンビバレントに楽しんでいるような複雑な印象)が、以前自身の人生哲学をステップアップ理論と名付けて説明していたのを思い出した。私は「どういうこと?」と思いながら聞いていたが、今思えばあれは非モテ研の自己病名化と同じかもしれない。ステップアップ理論を実践している人もいればソーシャルディスタンス理論を実践している人もいる。生き辛い男性と一口に言うだけでも色々な男性がいる。だいたい、生き辛い生き辛いと抽象的なことを得意気に言ったって、人間誰しも楽に生きてる訳じゃない。男女問わず、自分の経験を自分の言葉で語る人の話は聞いてみたくなるものだし、是非そういう語り方が広がってほしいものだ。
*1:もちろん非モテ研の彼らにもその片鱗はあるのだが、そこを先鋭化させまいという自制心とプライドもまたかなり強い人達だという印象を受けた。また書籍という媒体上、意図的にかなり大人しくまとめてあることが窺える
*2:この形容が本当にいろいろと適切ではない。そもそも遺憾なことに闇の非モテは実際にはそこそこモテるケースが散見されるので、それを非モテと呼ぶのは語義矛盾していると思わなくもない。愛すべき童貞的非モテよりミソニジスト的男性の方がモテてしまうのは何か不条理だけどそういう摂理なのだなとよく思う。
*3:私が甚だ不愉快に思う男性的な特徴として、社会人3年目――25歳を過ぎたあたりから男性が他人をいちいち「有能か無能か」「馬鹿か馬鹿でないか」のふるいにかけ、極めて主観的なジャッジで大して知りもしない人を切り捨て始める傾向、というのがある。そういう人に遭遇すると、この男は何様なのかと思う。
*4:ケアという言葉自体に私は違和感を覚えるのだが。
*5:自身の行為や傾向に自分で考えた病名をつけること。「女神化」「自爆型告白」など