取らぬ狸の胸算用

思い込みが激しい

アゴタ=クリストフ『悪童日記』

新年度です。モンハンライズを買いたい気持ちを賢明・懸命にねじ伏せて読書をする。
今まで読書記録は気が向いた時だけ書いていたが、やっぱりインプットとアウトプットちゃんと併せてやった方が良いなという気持ちになってきたので、これから暫くは(積読消化への発破も兼ねて)小説含めなんか本読んだらできるだけ感想メモを残すことにする。ネタバレ配慮しないので気にする方は読まないでください。


悪童日記

悪童日記

あらすじ(早川書房webサイトより)
戦火の中で彼らはしたたかに生き抜いた――大都会から国境ぞいの田舎のおばあちゃんの家に疎開した双子の天才少年。人間の醜さ、哀しさ、世の不条理――非情な現実に出あうたびに、彼らはそれをノートに克明に記す。


想像していたよりずっと読みやすい、し、ハードボイルド。連鎖的なショートショートみたいでエンタメ性もある。それなのに終始緊張が張り巡らされた不思議な読み味。殴打みたいな小説。
戦時下の苛酷な生活の中で自分達の内的な法だけに則して生きる天才双生児の秘密の日記という形を取っており、ゆえに一文が短く言葉も易しい。ただ、感傷が排されて淡々としたこの文体の特徴は、子どもだからというより主人公達の性格によるものだとわかる。規範の荒廃した時代の中で全く動じない、個としての強固な自覚、客観性、自律精神。この双生児は超人っぽいしかなり非現実的な人格で、正直言って読んでて共感もほぼ無かったが、事実しか見ないという信念をすさまじく貫徹する姿には気圧されて、妙に肯定的に読める。


訳者解説では彼らのルールのことを「独自の倫理」と表現されていたが、倫理と言われると直観で違和感を覚えるくらいには非人間的というか、倫理不在の印象を受けた。だからさっき「内的な法」とぼかして書いたんだけど。少なくとも一般的な道徳とはかけ離れたものを基盤に物事を考えている。でも丸きし非人間的かと言うとそれもまた違って、なかなか飲み下せず難しい。序盤では母親に親密さや執着を見せていたのに、終盤では母との別離やその死にまるで無感動になり結局疎開生活の面倒を見てくれた祖母の家に残ろうとするところは、その時々の事実と得られた報酬に基づいて動く行動主義的な合理性を感じるけど、そこにだって愛情の揺れ動きが含まれているような気配がある。「練習」として道端で乞食の真似をした時、金はくれなかったが目をとめて髪を撫でてきた婦人のその愛撫「だけは、捨てることができない」(p.50)という一文があったり、収容所へ牽かれていく人々を犬畜生と揶揄した女中をかなり残酷に制裁したりしていて、貫徹してるんだけど節々がちょっとずつ支離滅裂というか……どこか欠落や過剰の淡いが見られる*1。そしてこの作品においてはその欠落は決して子どもゆえの欠落ではない。主人公は双子だが、本当に双子なのだろうかというのも疑う余地を残した構成。ラストは精神の分裂の比喩とも取れる。


双子というのはつくづく神秘的でメタファーに富む。胎内の色など知らないが、双子と聞くと私は「ピンクに近い橙色の胎内で二つの胚が眠っているイメージ」を喚起される。極少と言う程でもないくらいの割合で実在する現象で、私も半生で数回くらい会ったことがあるが、一卵性双生児が二人並んでいるのを前にすると人知を超えた神聖な世界を垣間見たような気分に一瞬なる。生後すぐに引き離された一卵性双生児が、その後の人生で奇妙な程に似通った人生を辿る事例もあると聞く。真に受け過ぎは禁物だが。


↓ 続編の備忘

ふたりの証拠

ふたりの証拠

第三の嘘 (ハヤカワepi文庫)

第三の嘘 (ハヤカワepi文庫)

*1:でもそういう統制不足を感じるのは私が彼らの真意を汲み取れていないからに過ぎない気もしてくる。

匿名幾何学

長いことブログ名にしっくり来なくて人知れず試行錯誤していたのだが、今度こそこれで行くと決めた。そういえば最初からアイコンは信楽焼きのタヌキだった訳だし…後講釈になるが元々タヌキはかなり好きな動物で、特にペットとして遇されるに最適な姿形、個体数を誇りながらも、決して飼い馴らされない野生動物であるというところに美学を感じる。日本のそこら中すぐ側にいる筈なのにほとんど姿を現さないというのも神秘的かつラブリーで、特別な動物だ。一方でどこか老獪だったり間が抜けてたり、伝統的なキャラクターとしての多様な顔も持っていて愛嬌がある。そんな訳でリスペクトの意も込めて名付けた。


ブログ名なんて読み手は誰も気にしてないだろうしどう名付けても恥ずかしい感じになってしまうけど、それでも名付けなければならない、というのが難儀なところで、例えばこのブログもご周知の通り(?)某感染症以降は終息祈願も兼ねてステイホームならぬ「ステイクローズド」という名を暫く冠したりしていたが、中途半端に自分のポリシーを時勢に噛ませているのが何ともダサく思えてきたため少し前に満を持してクローズした。以後暫定的にその辺のブログっぽい名前をテキトーに与え、「ブログ名とか拘るのアホくさいし笑」みたいなクールポーズを採用していたが、あまり無頓着に個人サイトを名付けるとそこが自分の庭という実感すら失われてしまい書く時の意識からぼやけていくので、やっぱりきちんと同定可能なユニーク名に落ち着かせることにして、やっと落ち着いた。これで行きます。



ブログを週1目安に書くことを生活に組み込み始めて早1年ちょっと経つけども、これはトレーニングとしてなかなか良いです。文筆のそれとしても大いに良いけど、もっと広義に頭のトレーニングとして役立っている。
文章を書く習慣がない人からすれば「人間は考えていることしか書くことができない」と思われがちだが、実のところそれは全く逆であり、書くことで考えられることが増えていくというものだ。ペンを持つと別人格が憑依して湯水のごとく文章が溢れ出るとかそういう感覚的なことが言いたいのではなく、そもそも主張やら批評やらちょっとした読み物やらを普段から定期的に書き残していると、日常の出来事やトピックスに対して、以前自分が別の問題について述べたことを引っ張り出してそれとの関連づけをしたり、矛盾の発見をしたりするのが直観的にやりやすくなる。自分で書いたらその内容は身に刻み込まれて覚えているし、そもそも文字記録として参照可能になっているので、頭の整理にかかる負荷が軽減され、その代わりのブランクボックスでまた別の考えに能を割くことが出来る*1


まあこのブログは功名心抜きで気楽に書いているものだし、見ての通り読者も少ないから何を書き何を抜かそうが別に誰に詰責されることもないのだが、それでも私は自分の言動に関しては結構コンシステントでありたい派で、主義が無自覚にブレるって格好悪いことだよな、という主義を持っている(入れ子構造文)。もっと言えば、正直なのに一貫している、心の欲する所に従えども矩を踰えず、というのが一番の理想だ。ただ自分の場合到底そうはなれず、感情はおろか行動すらも時に渾然と矛盾してしまうから、せめて文責意識くらいは保っておきたいところであり、そういう意味でウェブログっていうのはとても良い。


要するにブログやっているおかげで自己検閲の幅が広がって、演繹的に指針に辿り着いたりあるいはその指針の揺らぎに気づいたりできるから、それは非常に有益なことだと思っている訳だ。検閲の内面化ってのは石黒一雄御大の仰る通り一面では作家にとって極めて深刻な目の上のたんこぶで、私自身それを歯がゆい障壁と感じたりすることもあるが、強いられて為す是正ではなく主体的な自問のための検閲であれば止めどなく寧ろ積極的にやって良いだろう。


SNSの文章は上等じゃないから読まない」と村上春樹がいつぞやのインタビューで語っていたらしく、つい先日その話題がTwitterで耳目を集めていた。いかにも村上春樹っぽく、「もし僕らのことばがウィスキーであったなら…」とか言ってる人からすればそりゃそうだろうなという発言だ。とはいえ実際SNSに流れる文章の平均的な質だけを評価するとそりゃあ確かに上等な訳ないのだが。ただ、じゃあ何でSNSの文章は上等じゃないのかというのを考え始めるとまた面白い気がした。
SNSはそこにいる人間の質が上等じゃないから文章も上等じゃないのだ、などと一蹴するのは簡単であるが、恐らくそれ以上に、文章の上等さというのはその匿名性と密接に関連している。文章の匿名性、言い換えれば「文責を当人に追及できる度合い」を示す線分があるとすれば、上等な文章というのは線分のどちらか片端に位置していることが多い。つまり極端に匿名性が高い場合と極端に匿名性が低い場合である。


極端に匿名性が高い場合というのは、例えば法律文章とか、詠み人知らずの和歌とか、5ちゃんねる掲示板の書き込みとかだ。文章を書いた個人を特定することが出来ず、その人の他の文章を参照することも出来ないがために、一期一会の希少性があり読み手の想像力が掻き立てられる。
逆に極端に匿名性が低い場合というのは、有名作家の小説とか、偉人の格言とか、物語におけるキャラの終盤の台詞とか、芸能人のラジオとかだ。その言葉を言ったり書いたりしたのが誰なのかというのが重要であり、それによって言葉に奥行きや説得力が付与されて感銘に繋がる。「中庸が一番」という言葉にしても、アリストテレスという凡庸とかけ離れた人類史上最高峰の知性が言っているからこそ言葉が凄みを帯びているのであって、これがFラン大学卒の実家暮らしニートに「普通が一番」とか言われたら「お前はもっと頑張れよ‼‼」となるだろう。


もちろん匿名性が極端だからって必ずしも良い文章とは限らず、ただそういう条件下だと良い文章が生み出されやすいということだ。2つのパターンは似て非なるもの、非なりて似ているもので、コンテクストに強く依存している点で共通していながらも、その文脈は全く別種の文脈である。匿名性が高い文章は書き手の情報がほぼゼロなので、その文章が何のためにどこで書かれた文章であるかという残りの情報が浮き出たような形で印象に残り、読み手の好奇心を刺激する。ぽっと湧いて出た、文脈が無いという一種の強烈でソリッドな文脈。匿名のために投影しやすく、しかし誰とも知れぬ浮遊した他人。書き手も自分の文章であることの責任感などないために、空に投げつけるみたいに衒わない無加工の普遍的な情緒がある。他方で匿名性が低い文章は前述のとおり誰の文章であるかに依存しており、書き手からすれば他でもない自分の文章への厳格な責任感ゆえに威信をかけて言葉を吟味推敲することで上等な文章が出来上がるし、読み手としてもその人をよく知っていれば知っているほど多角的に見れて面白い。人格という一個の文脈への造詣がその人の言葉を味わい深くする。


こうして考えた時に、SNSというのは匿名性が非常に中途半端だ。実名は伏せられてもアカウント名は表示されるし、多様な人の発信が入り乱れてはいてもその人のアイコンをクリックすればその人のホーム画面に飛ぶ。無作為に乱読しようとしても少し続ければ「よく見る人」みたいなアルファ存在が必ず現れてきて、要らぬ情報を知ってしまい、都合の悪いことは隠されてしまう。このように匿名性が片方の極に研ぎ澄まされるのが構造的に難しい状況だと、必然の成り行きとして承認塗れの駄文が目立ち量産され、上等な文章はどんどん総体に埋もれていくのである。


しかしこんなことを書きながらも私自身は結構インターネット中毒のきらいがあり、SNSの文章だって割合に楽しんで読んでいる。信条の似通った者達で界隈を形成し「いいね」を飛ばし合ったり、相容れない論客に安い挑発を繰り返し他人を操作する喜びに浸ったり、そんな腑抜けた行為にかまける私ではないので、飽くまでROMにとどまっているが、SNSブラウジングはそういう一読者から見てもエンタメ消費ができるジャンルにくらいは成っていると思う。文章の平均的質に関してはそりゃ決して高くないし、良い文章が読みたくてSNS見るような馬鹿はそんな居ないだろうけど、結局SNS内でも上述と同じ論理が敷かれ、匿名性が高低どちらかに振り切れている人の文章ほど上等である場合が多く、これはという地の塩のような言葉に出会うこともある*2


SNSへの評価はゴシップの評価と通じるものがあると思っている。村上春樹みたいな御年72歳の老人がSNSを敬遠するのは寧ろ当然の話だが、30代以下のフレンドリー世代で、SNSにかなりディープに浸かっているような人ですら、いざSNSの有益性を問われると甚だ懐疑的な意見を述べたりすることがままある。この「SNS、やってはいるけどくだらない。もっと良いものはたくさんある」みたいな感覚は私もこよなく共感するところなのだが、それでも「一応やってはいる」という事実の部分を忘れてはいけないだろう。ゴシップに関して同じことがよく指摘される。ゴシップつまり他人の噂話は、皆がやっていることなのに大半の人がそれに対して批判的な態度を採りがちだ。ゴシップを話すことで会話に油が差され人間関係が進歩する現象は至る所で何億どころか何恒河沙、いや何那由多回くらい繰り返されているのに、一般にゴシップは「あまり良くない、汚染されたもの」とされている。これはゴシップの過小評価だと、名著『しあわせ仮説』でジョナサン=ハイトが言っていて、私も大いに説得された論だ。SNSにもある程度は同様のことが言えるかもしれない。


はてなブログなんかも広く捉えればSNSの亜種みたいなもんだろう(亜種呼ばわりは怒られるかな)。私は文責は持ちたいけど結局ネットの零細個人ブログだし、このページでの筆名をわざわざ設定する程ガチガチにする必要はないと考えているので、このブログの匿名性も突き抜けられず中途半端だ*3。まあそれでも可能な限り上等な文章目指して刻苦勉励あるのみである。


…決意表明じみた言葉で締めといてアレだが、今月いっぱいドタバタするので記事の頻度や文量減ります。

*1:ただ、あまり脳内垂れ流しのように書く習慣がついてしまうと今度は書いていることしか考えられなくなっていくので、加減が必要。

*2:元も子もないことを言うが、この稿全体を通した文章評価の基準には私自身の趣味が影響している。審美眼はあるつもりだけどちょっと依怙贔屓が混ざっているのは否めない。

*3:とはいえ読者はほとんど既存の知り合いなので、そういう意味では実は匿名性めちゃくちゃ低いのだが。

ミュージアム門下生

去る2月17日は安吾忌だった。

だからどうという訳でもなく、この話はここで唐突に終わらせてもらう。ただ言いたかっただけである。


過日、両国の江戸東京博物館で開催中の「古代エジプト展―天地創造の神話―」に行った。エジプト神話の原初の海ヌンについてのキャプションの前で「ヌン、ヌン、ヌン」と連呼してイチャつくカップルがいたこと以外は総じて良い展覧会で、面白いものがたくさん見れた。ベルリン国立博物館のエジプト関連所蔵品を借りた巡回展だが、展覧会全体の案内人として配置された山犬頭のアヌビス神が非常に秀逸に3Dデフォルメされていて(しかも声も良い)、ともすれば性的なくらいに魅力があるのが独自の面白さとして挙げられる。海外のものを展示する時にこういったキャラクタライズが施されるのは日本巡回のオリジナリティーで、賛否はあるのだろうがデザインが優れていれば私は好きだ。


しかし美術館や博物館に行くといつも思うこととして、見ている間は楽しく充実した時間を過ごしている実感があるのに、帰り道には見たものほぼ忘れている、という現象が多すぎる。配布されている目録を見返してみても、とりわけ印象的だった数点くらいしか品名と実物を頭で結び付けて反芻することが出来ない。興味を持って足を運び、絵画やら出土品やらの実物を前にふむふむと鑑賞した筈なのに、後に残るものは無くただ体験を買っただけのような空虚感すら密かに起こる。


それは自分はじめ鑑賞者側の見識不足によるものだと考えていたし実際そういう面も大いにあるだろうが、この頃になって「私のせいだけでも無いな」と疑い、気づき、ないし開き直り始めた。国公立の博物館だと自分の興味の度合いに拘わらずどんな分野の展示でも概して似たような感想になるのだ。
だいたい同じような空間利用で、同じような規則性に沿って展示物が配置されており、そういう画一的な見せ方は良くも悪くも文脈を無効化する。建造物が白壁の箱型空間であるのは最適化の結論だろうし納得できるから良いとして、私が止めてほしいなと思うのはテーマ括りで空間をまとめる展示形式。テーマではなく時系列や作家でまとめた方が自然であるし鑑賞者も流れを追って理解しやすい。例えば歴史的遺物の展示(ex. 古代エジプト展)ならモチーフではなく推定制作年でまとめてほしいし、多数作家の美術展(ex. ルネサンス展、「怖い絵」展)なら作家ごと、更にその作家の制作順でまとめてほしいのに、ここ5年くらいで行ったそれ系の博物館は8割くらいがテーマ優先で部屋を区切った順路になっていた。しかもその作品テーマの割り振り方も、キュレーターの恣意的な判断ではないかと疑わざるを得ないことがそれなりにある。


テーマ別の展示というのは恐らく鑑賞者の知識の無さを前提にしており、知識のない人間でも感覚的に楽しめるように配慮した結果かと推測する(あと内装のしやすさと滞留時間の遅延防止)。確かに博物館の来客は別に専門家でも何でもない一般大衆であるから、そうした配慮が実際に実を結んで満足感に繋がっている部分もあるのだろうが、一過性を越えた、点と点を繋ぐような体系的な理解はあまり望めない。知識のない人間でも楽しめることだけでなく、知識のない人間の知識を増やすことにももっと意欲を費やしてほしいと思うのは我儘だろうか。ツタンカーメン時代(紀元前14世紀)とプトレマイオス朝時代(紀元前1-3世紀)の出土品が特に何の説明もなく、ただ同じ神をモチーフにしているからという理由で横に並んでいるのを見たら、腑に落ちない感想を持っても仕方ない。テーマごとで区切るにしても、せめてその室内でくらいは時系列順に並べて欲しい。あらかじめ相当な見識のある人間でない限り、ちぐはぐに並べられたものから体系を割り出して縦横無尽に鑑賞するなんて芸当は出来ない。当然私も出来ないので毎回すぐ内容を忘れてしまう。大体にして建物の狭さに反して取り扱う展示の規模がでかすぎてピンぼけしていることが多いので、もう少し時代や分野の焦点を絞って深みに入り込めるようにしてほしいと思ったり何だり。あと製造法や絵画技法の説明も全くないことがほとんどで、何がどうすごいのか論理的に理解しようと考えづらいのも問題だ。


加えてよく感じるのが、本来そんなに高等でもなかった物が博物館という文化的に洗練された清潔な均質空間に陳列されてしまうこと自体への似つかわしくなさ。古代の生活用品とか、江戸時代の春画とか、そういう当時むしろ卑俗だったであろう物が時を越えて真っ白い壁の部屋のガラスケース内でぽつりと守られ、余所行きの立派な服を着た人々から長蛇の列を成してまでまじまじ角度を変えて鑑賞されているその状況は、意識してしまうとかなり不思議なものである。古代の祭事に使うような神々の意匠があしらわれた品々だって、まあ神聖な物ではあるのだろうが、当時の人々にとっては恐らく高尚というより日常的な存在だった訳じゃないですか。そういう違和感みたいなものは拭えないよな。これに関してはだからと言ってどうしようもない気がするが、もう少し下賤の雰囲気をまとった国立博物館があってもいいかもしれない。


いわゆる現代アートのギャラリーなんかはやはり作家(存命だし)やキュレーターの創意工夫が広く許容されているだろうから、作品の好みはともかく、展示としてエネルギッシュで面白いことが多い。あと作家1人をまるまる取り上げる展覧会が私は好きで、京都で見たマグリット展なんかは特に作品数も解説も充実しており、個展ゆえに大抵制作順に並べられているから、それまでほとんど知らなかったマグリットの魅力を存分に味わえた。ちょうど1年くらい前に行った箱根彫刻の森美術館も爆裂に面白く、野外に現れるというシュールさが作品の潜在能力を効果的に引き立てていた。

箱根 彫刻の森美術館 公式サイトより


博物館とか美術館みたいに存在自体が公益性に適っている施設はどうも画一化しがちで一長一短ある。土日に上野のミュージアムエリア行くと必ず夥しい人の列が同時多発していて、たとえ真夏の炎天下であろうと日傘を差して項垂れながら、一人客もいればちょっと意識高めのカップルから老夫婦まで、みんな一糸乱れず上品に待っている。たまに自分も意を決してそこに並んでみたりするのだが、そのたびに並びながら「何かが違う」と思うのは確かだ。豊かで高尚な物への人々の興味や憧れがこんなモブ行列の形で表れてしまうのは何か違うのではないか。本物を見たい気持ちが人をこんな劣悪環境に貶めるのは…。
そういう帰路にちょっと寄ってみるかと考えてアメ横に向かうと、そこでは先程の高級な文化地区は何だったのかと思うようなDarkness空間が混沌と広がっており、こんなところに用はないなと結局何もせず踵を返す羽目になるのだが、このコインの裏表みたいな上野の一体構造はとても象徴的でどこか安心する。清濁併せ飲みじゃないけど、もう少しその境目が曖昧でごったになると尚楽しいのかもしれない。